磁器の魅力にふれる -白く硬く艶やかな磁肌 美しい文様がより際立つ-
有田焼とは
悠久の時を内包するかのような多彩な表情を持つ有田焼は、日本で初めての磁器としておよそ400年前に生まれた。
世界を魅了する様式美と歴史を溯る。
「有田焼の特徴は何より多様だということ。伝統や芸術性だけでなく、産業として発展したことも400年もの長きにわたり続いた要因だと思います」と語る佐賀県立九州陶磁文化館の家田淳一さん。
時代と共に独自の技術革新、変遷を重ねてきた有田焼。その多彩な技法を駆使した磁器は、国内外で
高い評価を得ている。
有田焼とは佐賀県有田町周辺で焼かれる磁器を指し、有田は日本の磁器発祥地として知られている。歴史は17世紀初頭の江戸時代初期に溯り、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に連れてこられた朝鮮陶工の一人・李り さんぺい参平(金ヶ江三兵衛)が手がけたのが始まりだ。
当時、有田一帯で陶器は焼かれていたが、李参平は磁器の製造を追求。それには原料となる陶石が必要だった。元和2年(1616)、ついに李参平は良質の白磁鉱を有田の泉山で発見。有田西部に築いた窯で焼成に成功する。これにより有田の窯業は陶器から磁器へと大きく発展していくのである。
有田焼の初期は、白磁に呉須で絵付けした染め付けの「初期伊万里様式」が主流。17世紀後半には、濁にごしで手という乳白色の素地に余白を生かして赤や黄、緑などの上絵を施した「柿右衛門様式」が流行する。
さらに同世紀末の元禄期には金彩を加えた華やかな色絵の「金襴手様式」が登場。装飾性が高く欧州でも好まれた。また、同時期に将軍家献上専用の御用窯が佐賀藩によって築窯され、精緻を極めた絵付けと文様は「鍋島様式」と呼ばれたが、その制作は有田に隣接する伊万里の大川内山において厳しい管理下に置かれたという。
有田焼は現在も分業制が基本だが、それは各工程の完成度を高めるためとも他藩への技法漏洩を防ぐためだったともいわれている。
そして、有田で作られたやきものは北部の伊万里港から運び出されたことから国内では〝伊万里焼〟と呼ばれた。さらに幕末から明治にかけて欧米の万国博覧会に出品され、有田で育まれた磁器の産業は、世界にジャポニズムの流行をもたらしていくのである。
※こちらは男の隠れ家2018年10月号より一部抜粋しております
※記事コンテンツ以外は2023年2月27日プレオープン予定となります
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