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男の隠れ家コンテンツ

  • DEEP沖縄。沖縄ノスタルジー 異国文化編

    通りを飾る横文字の看板にコザの歴史が詰まっているかつて沖縄本島中部に存在したコザ市。日本で唯一の片仮名表記の市であった。現在は沖縄市となっているが、その地に足を踏み入れてみると、コザという響きの方がピンと来るはずだ。沖縄には「チャンプルー文化」と呼ばれる独特の文化があるが、コザこそがその代表といっても過言ではない。なぜなら、チャンプルーとは“混ぜこぜ”を意味する言葉で、コザの市内には50カ国、1700人余りの外国人が暮らしているからだ。そのコザの街を歩いていると行き交う人の多くは外国人、それも明らかに観光客ではないのがわかる。自分が外国に迷い込んだ錯覚に陥るだろう。メインストリートといえる「コザゲート通り」は、その名の通り嘉手納基地のゲートへと続いている。そして通りの両側を埋め尽くす商店の看板を見ると、ほとんどが横文字である。店を切り盛りする人も、日本人だけでなくアメリカ人、インド人、フィリピン人、タイ人など、様々な国の人たちがまさにチャンプルー状態。そんなコザの魅力を最初に感じたのは、通りを埋め尽くす異国情緒あふれる看板だった。それらを闇雲に眺めるのではなく、街の成り立ちと看板の関係を面白おかしく解説してくれるスペシャリストと回っている。「コザ街あるきガイド」のスマイリー大城さんである。「基地から出てきて羽根を伸ばそうとしている兵士たちを、呼び寄せる役目を果たしているのが看板サァ。ところが沖縄が台風銀座であるという事情もあり、看板は独特なスタイルに進化したのよ」それは英文なのに縦書きに設置されたネオンサイン。横書きにして店から突き出すと、ほぼ間違いなく台風に吹き飛ばされてしまうのだとか。そこで看板は三角錐のスタイルにし、あまり飛び出さないように縦に設置。それに合わせ英文も縦書きになったのだという。そんな話を聞きながら歩いていると「ヤァ、オオシロサン。キョウモオシゴトデスカ?」と、外国人が声をかけてきた。「この社長はインドから来たサァ。もう20年以上沖縄だよね?」「ニジュウロクネン。スッカリニホンジン!」。大城さんは看板だけでなく、コザという土地に住む人の魅力を教えてくれる。また、本業は安室奈美恵の巨大ポスターも製作する看板会社の代表も務める。その他、音楽関連のイベントなども手がけており、看板に対する愛情であふれている。1960年代の空気を運ぶAサインというメモリアルコザを巡る際に、もうひとつ忘れてはならないのが「Aサインだ。AサインのAはApprovedの頭文字で、認可済みという意味。米軍人や軍属が利用してもよいという店に発行する許可証で、1953年から導入された。その規定はかなり厳しく、店はコンクリート造りで、前面道路は舗装されていなければならない。トイレはタイル張りでペーパータオルまたは衛生的なタオルを備え付ける。さらに店全体にわたって清掃が行き届いていて、使用人は週に1回保健所で検査を受けなければならないなどの決まりがある。ベトナム戦争が佳境だった1960年代後半、沖縄は戦地へ向かう将兵であふれていた。彼らが基地から外出し、心置きなく遊んだのがAサインの店。ステーキを食べさせるレストラン、酒と音楽が楽しめるバー、さらには女性と遊べた風俗店まで。そんなAサインは、日本復帰直前の1972年4月15日に廃止された。今でもメモリアルに、当時のままAサインを店内に掲げている店の一軒に入ってみた。Aサイン店の老舗といえる「スナック喫茶プリンス」だ。「壁に貼ってある1ドル札はベトナムに出征する兵士が帰還を願いサインしたもの。彼らの魂サァ」。そんなママさんの言葉は、本州ではけして感じることのないリアルな1960年代の沖縄の空気である。Aサインの店は、それを教えてくれる案内役なのだ。本物のロックが息づく熱いライブに浸ってみるAサインを掲げた店から生まれたのが、沖縄のロックだ。今では「モンゴル800」や「りゆし58」といったバンドを輩出し、全国的に注目されている沖縄のロックシーンだが、そのルーツはコザにあった。1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約で、日本は連合国による占領から解放された。しかし沖縄は昭和42年(1972)に本土復帰が叶うまで、アメリカの施政政権下に置かれた。だから沖縄人は米軍基地や米兵、軍属たちから強烈な影響を受けたのである。そんな沖縄の中でも、特に米兵たちとの距離が近かったコザは、ロックがリアルな存在だった。そしてベトナムの戦地へと赴く兵士たちは、より刺激的で大きな音、間違いなく本物といえるロックを聴いて解放感を求めたのである。その中から伝説のバンド、「紫」や「コンディション・グリーン」が生まれた。演奏が不満だと、容赦なくビール瓶が投げつけられるという環境で鍛えられただけあり、彼らが本土デビューを飾った時はその実力の高さに誰もが驚いた。そんな系譜を今も引き継いでいる店が「JET」と「CLUB QUEEN」と、そして、そのステージを飾るバンドだ。ライブハウスの扉を開けると、むせるようなパワーあふれる空気のボディブローを喰らった。次の瞬間、強烈なグルーヴとビートの効いた爆音に、心臓を鷲掴みにされる。今も30軒近いライブハウスが毎夜、こうした熱い演奏を繰り広げている。「体温を感じられるほど、演者との距離が近いのが魅力ね」。東京からコザのライブハウス巡りを目的に、沖縄へやってきたOL2人組の言葉が印象的だった。琉球時代からの伝統も様々な形で継承する沖縄は、パワースポットの宝庫としても知られている。随所でアメリカを感じさせるコザにも、そんな沖縄の伝統を色濃く伝える場所が存在する。それは特に御利益があると沖縄全島で知られている「泡瀬ビジュル」だ。閑静な住宅街にある泡瀬ビジュルの始まりは、1768年頃にこの地に移り住んだ開拓者の高江洲義正翁が、海面に浮かんでいる不思議な霊石を見つけたことであった。翁はこの不思議な石をビジュル神(沖縄の言葉で信仰の対象となる石のこと)として祀った。以来、子安の神様として知られ、沖縄全土から子授けや安産祈願などのために訪れる人が増えたのだという。無人と思われたビジュルは午前10時になると、ご近所のオバァがやってきて社務所を開けた。それから午後6時まで、安産や子宝のお守りの販売などを行うという。「平日もお参りの人がけっこう来るサァ。そう言ってる間に、ほら」。若い男女が愛らしい紅型にくるまれたお守りを買っていった。沖縄の人たちの間には、こうした古くからの伝統や祖先の霊を大切にする文化が息づいている。その一方、新しい文化を積極的に取り入れる動きも活発だ。沖縄市でも、空き店舗になっ商店をリノベーションし、新しいタイプの宿泊施設として活用している「トリップショットホテルズ」などは、観光客はもちろんのこと、県外の業界関係者からも注目されている。もうひとつ忘れてはならないのが、沖縄市は平成19年(2007)に「エイサーのまち」宣言をしていることだ。町ぐるみでエイサー文化の継承、そして発展に努めている。旅行者が気軽にいつでもエイサーを楽しめる施設もある。こんな沖縄市の新旧入り混じったディープな部分を知れば知るほど、ビーチでぼんやりしている時間がもったいなくなるはずだ。※本記事の内容は雑誌掲載時の情報です。----------------------------------Recommend Contents 詳しくはバナーをクリック↓灯AKARI(キャンドル) 2個セット日本古来の伝統、素材を活かし、桧のおちょこを反転させてロウを流し込んだろうそく。詳しくはバナーをクリック↓ホームロースター機能は生真面目、デザインはクリエイティブな家庭用焙煎機。

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  • DEEP 沖縄

    本土ではすでに夏が過ぎ去り、錦秋の彩りが南下する頃、沖縄はまだまだ夏の残照が煌めいている。沖縄は夏ばかりではなく、秋こそベストシーズン。ディープな沖縄を楽しめる季節となる。秋、ゆっくり「島」を歩けば、見たことのない沖縄に出会えるかもしれない。沖縄に行くなら〝出会いの秋〟がいい「沖縄に行くなら、いつがいいですか?」とよく聞かれる。僕は迷わず「秋がいいです」と答える。沖縄も秋が深まると、暑さもようやくやわらぎ過ごしやすくなる。晩秋ともなれば、台風が襲来することも少ない。それでいて冬の気配を感じる本土と違い、穏やかな暖かさは十分に堪能できる。観光客も比較的少なめで、落ち着いて周れる。だから沖縄を旅するなら、秋がいい。秋の沖縄で、何をしようか。気合いを入れれば泳げるが、沖縄の魅力は青い空と海だけではない。この快適な時期には、気ままに歩く「散歩の旅」を勧めたい。沖縄は歩くほどに、発見と出会いがある場所だ。夏の強烈な日差しも落ち着くこの時期は歩きやすい。だから歩いてほしい。街を歩こう。それも表通りから外れ、脇道へ。ガイドブックに載る名所や人気店は少ないが、そこでは予想もしない発見や出来事が、旅人を待っている。「飛び安里の碑←」。那覇市の隣、南風原町の脇道で聞き慣れない「飛び安里」の案内板が目に留まった。矢印に従い、丘に続く石段を上る。1、2、3……実に200段以上!息を切らし丘の上に着くと「飛び安里初飛翔記念碑」は立っていた。飛翔? 説明文を読む。かつてこの地に住んだ「安里さん」が、琉球時代の18世紀に飛行機を考案し、空を飛んだーーライト兄弟よりも早く? まさか! 頭上に広がる青空。この空を本当に飛んだのだろうか。学校では習わない歴史の片鱗に触れ、得した気分。歩いた甲斐があった。「あーら、お久しぶり」本島の住宅街で、以前たまたま寄った「パーラー」。以来、近くに行くと必ず寄る。そのたびに店の奥さんが、明るく迎えてくれる。先客は生ビールを飲むオジさんと、小学3年くらいの少年4人。ビールに泡盛、沖縄そばにコーヒーとジュース、お菓子までそろうのが沖縄のパーラーだ。ランドセルを放り投げ、1個20円のチロルチョコで盛り上がる少年たちを横目に、僕はアイスコーヒー。「ウナギ食べる?」と奥さん。コーヒーと一緒に? でもいただきます。ここで「こーんにちはー」と地元の婦人がご来店、ウナギを食べる僕を見て、すかさず言う。「アラ、ウナギあるの?」奥さん「(ヤバい、もうないのよね)今日は蒸すわねー」婦人「ねえウナギあるの?」奥さん「雨が降りそうねー」そそくさとウナギをかきこむ僕の横でチョコを頬張り「最近どう?」「まあね」と少年たち。何が「まあね」だか。緩い空気に身を任せ、自分が旅人であることすら忘れていく。老若男女も地元もヨソ者もゴチャまぜの午後のパーラーで「ああ、沖縄だ」と感じずにいられない。那覇から遠く、観光客もいない小集落。ブラブラ歩き、小学校のそばを通りかかった。すると、「オジさーん、何やってるの?」窓から子どもたちが顔を出し、大声で叫びながら僕に手を振る。「アンタたち、授業中よ!」と背後から女先生も現れて「ゴメンなさいねえ」と言いながら、僕を見て苦笑い。ああ、沖縄に来た。やはり観光客が少ない、別の小集落。散歩の途中、日陰のベンチで休んでいると、地元らしきオジさんが来て隣に座った。そして手元のビニール袋をガサゴソとまさぐり、取り出したのは缶ビール。「飲む?」と言い僕に差し出す。「いいんですか?」と言うと、再び「ほれ」とオジさん。いただきます。プシュッと栓を抜き乾杯。「こんな何もない所に、なんで来たの?」と、オジさんは笑った。夜も歩こう。沖縄は夜行性の人が多いから、夜は居酒屋やバーの明かりが煌々と灯り大にぎわい。ホテルに閉じこもっていてはもったいない。那覇の外れ、闇夜にポツンと灯る「BAR」の看板。「いらっしゃいませ」眼鏡、ヒゲのマスター。ジャック・ダニエルをロックでもらう。アメリカ統治の影響で、沖縄のウイスキーの主流はバーボンかテネシー。沖縄の長老は泡盛より、バーボンを好む人が多いとも聞く。客は僕ひとり。マスターが氷を削る音がシャリッ、シャリッと静かに響く。店内の隅でレコードが回り、ジャズが流れているーー。沖縄に秋が来た。歩くほど話すほどに、素顔の魅力を感じてやまない、沖縄の秋が来た。沖縄の奥深さを味わうなら秋がいい。出かけよう、秋の沖縄へ。もうひとつの那覇の顔 迷宮を彷徨うような裏通りのマチグアーえびす通りに立地するから「恵比寿珈琲」。しかしビール派が集う店。小径が複雑に交差する迷路のような商店街へ進入県庁前から延びる約1.6kmの道路に沿って、レストランや土産物屋がびっしりと軒を連ねる那覇の国際通り。ここは沖縄を訪れる観光客誰もが足を踏み入れる超メジャーな観光地だ。時期や時間帯によっては、まっすぐ歩くことも困難なほど人があふれているため、旅慣れたリピーターの中には、敬遠する人も少なくない。だがそんな国際通りには、一歩裏へ踏み込むとまるで迷宮のように入り組んだ商店街も存在する。地元の人ですら自分の居場所がわからなくなることがある、そんなスージグワー(路地)のマチグワー(商店街)を訪ねてみた。国際通りの入口へは、那覇空港からモノレールで約13分の「県庁前駅」で下車。駅の南側すぐの通りが国際通りだ。県庁北口の交差点から国際通りをプラプラと東へ向かう。「兄さんによく合うかりゆしウエアあるよー」など、威勢のいい呼び込みの誘惑に負けずに10分ほど歩くと、市場本通りという商店街の入口に至る。そのすぐ先にはむつみ橋通りという商店街もある。どちらの道を選んでも、奥で無数の路地と結ばれ、巨大なマチグァーを構成している。市場本通りの入口付近には、お土産物屋から各種総菜を扱う店、衣料品店、鮮魚店などが並ぶ。観光客の姿も多く、明るい南国の雰囲気あふれる通りという感じが漂っている。そして多くの観光客がそれらの店を覗き込んでいる。しかし市場本通りをさらに奥へと進んでいくと、次第に人通りが少なくなっていく。やがて平和通りと交差し、いつの間にか名前は市場中央通りに変わる。さらに迷路のような小径がたくさん交わってくる。面白がってそれらの道に入っていくと、だんだんと方向感覚が失われていってしまう。平和通りと市場中央通りが交差している辺りには、かつて観光客にも人気だった第一牧志公設市場があった。現在は改築中のため、店は全てシャッターが下ろされ、廃墟のようになっている。当然、観光客の姿などあるはずがない。市場中央通りと並行するパラソル通りに入ってみると、シャッターを下ろしたままの店が増え、先ほどまでの明るい雰囲気はなくなった。その代わりに、東南アジア風の空気が漂っている。衣料品を扱う店が目につくが、商品を無造作に積み上げているかと思えば、公共の通路の手すりに引っ掛けるという荒技ディスプレイを見せてくれる。テーゲー(いい加減)なところが実にいい。どこの道に足を踏み入れても面白い光景ばかりに出くわすので、ついつい通りを右へ行ったり左に折れたりしてしまう。そうこうしているうちに足は疲れてくるし、喉も乾いてくる。ふと路地の先に目をやると、えびす通りの看板下にカウンターのカフェらしき店があるのが目に入った。そこは店名が「恵比寿珈琲」というのに、先客はみんなビールを呑んでいる。「コーヒーもありますけど、どうします?」と、店を切り盛りしていた青年。沖縄はまだまだ夏が続いていたので、明るい時間であったが、オリオンの生をいただくことにした。青年は沖縄のゆる~い時間が気に入り韓国から来沖。そのまま住み着いてしまったという。その彼に店名の由来を尋ねると「えびす通りにあるからっしょ!」と笑われた。ひと息ついたところで、さらに探索を続けた。再び市場中央通りに戻り、そこから薄暗い路地へと足を踏み入れた。すでに夜の雰囲気が漂う路地奥には「足立屋」という大衆串揚げ居酒屋が、早くも大勢の吞ん兵衛たちを引き寄せているではないか。「“千ベロ”いかがっすか。つまみ1品にビールやサワーが3杯呑めますよ。つまみは串カツ4本か、もつ煮込みのいずれか。味は保証しまっせ」なんだか大阪新世界界隈にでも迷い込んだ気分。店はけっこう混んで賑やかだったが、時間はまだおやつ時の3時。いいのか!?ディープな店が多い歓楽街は今も元気に営業①路地を歩いていると「金玉」という文字が目に飛び込んできた。どうやら占いの専門用語のようだが、なかなか見かけない看板だろう。②アーケードの商店街は筋ごとに名前が変わる。③那覇最大の買い物スポット、国際通りの裏手とは思えない鄙びた雰囲気がいい。④小さな路地ほど面白い店が見つかる。市場中央通りを核とする迷宮のような路地に隣接し、戦後に歓楽街として発展した所が桜坂通りだ。最盛期には数百もの飲食店が軒を連ね、夜な夜な怪しげなネオンに多くの人たちが吸い寄せられていたエリアだ。現在も当時の面影をわずかに残す店と、新たに開発されたホテルや店が混在し、不思議な匂いを醸し出している。この通りが開発されたのは1951年。現在の桜坂劇場と、西にあるアーケード街の平和通りまでの小高い丘を越える道路として造られた。坂の頂上付近に、桜坂劇場の前身である芝居小屋の珊瑚座が建築された。1952年にこの小屋が営業を開始し、坂に桜を植樹したことが、名前の由来だという。だが桜は、たった2年で伐採され、道路となってしまう。日中の桜坂通りは人通りが少なく、通りに面したカフェのテラス席には、地元のおじぃとおばぁがゆんたく(おしゃべり)に興じていた。そんな光景を楽しみつつ、ゆっくりと散策する。昼間からさらに呑むのは気が引けたので、沖縄の郷土玩具の琉球張子作家が営む「玩具ロードワークス」に入ってみた。こんな個性的な店と出会えるのも路地裏の面白さだろう。桜坂通りの東北側に続く路地が、一帯を米軍に接収されていた時代、沖縄随一の歓楽街であった竜宮通り社交街である。社交という言葉には、かつてはいろいろと深い意味があったようだ。今は150mほどの細い路地に、小さなスナックや飲食店がひしめいている。常連客ばかりが集いそうな、小さくディープな印象の店が多く、何となく敷居が高く感じられてしまう。しかし実際に訪れてみると、観光地の店よりも居心地が良く、案外値段も安いみたい。ウチナーンチュとの一期一会を期待するなら、こうした場所がいいかも。戦後復興期の風景を残す地元民に愛され続けた市場桜坂・竜宮通り界隈。国際通りの店は観光地価格なので、地元の人は足を向けないようだ。だが昔から変わらない風情を残す竜宮通り社交街は、地元の人で賑わう。最近ではわざわざ足を延ばす観光客も増えてきているという。そして戦後の復興期に誕生し、今もなおその当時の姿をとどめている栄町市場へと向かった。そこは国際通りから近いモノレールの「牧志駅」の次の「安里駅」前という一等地にありながら、日本に唯一残された歴史の生き証人といっても過言ではない、戦後のカオス感をまとっているのだ。市場内はご多分に漏れず入り組んだ迷路のような路地で構成されている。日中は地元産の野菜や精肉などの生鮮食品、それに手作りの総菜を扱う店が路地のあちらこちらで営業している。どの店からも、威勢のいいおばぁのかけ声と笑い声が聞こえてくる。そして店の前には買い物ついでにお店の人と話し込む客の姿があった。戦後復興期にできた建物が昔を感じさせるだけでなく、ここには人の温かさや優しさも残っているのだ。市場のほぼ中央にあり、買い物客や店の人たちの鼻孔をくすぐり、引き寄せてしまう憩いのスペースが「コーヒー ポトホト」だ。カウンターに2人座ると満席だが、その周囲で立ち飲みする人が後を絶たない。そこでおすすめのコーヒーの情報交換が始まるのも、人との距離が近い路地ならでは。ここは地元のコーヒー通だけでなく、県内のカフェが豆を求めにやって来るほど、その美味しさは評判だ。夕刻が近づいてくると、日中シャッターを閉じていた店が次々にシャッターを開いていく。そして赤提灯に火が灯ると、行列ができる餃子屋や古酒や琉球料理が味わえる居酒屋、さらにはエビだけしか置いていない店、貝料理専門店など、とにかく個性的な店が開店時間を迎える。こうして市場は、昼間と違った顔となった。何かが焼ける美味しそうな香りにお酒のグラスの中の氷の音が交ざり、身体の中はガス欠状態になってくる。そこで栄町市場のシメとして、居酒屋なのに沖縄そばがめっぽう旨いという「栄町ボトルネック」へ。酒や肴も言うことなしなのだが、肉や魚の缶詰の食べ比べもできるユニークな店だ。那覇には浮島通りやニューパラダイス通りといったスージグワーがまだたくさんある。一歩足を踏み入れて、ディープな“伝統の顔”を探ってみるのも旅の醍醐味だ。※こちらは男の隠れ家2019年11月号より一部抜粋しております

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