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男の隠れ家コンテンツ

  • 全国山城紀行。

    城というと、立派な天守があり高い石垣と広い水堀に囲まれているイメージがある。しかし城のほとんどは時代の背景から山の地形を利用した山城なのだ。「男の隠れ家」が選んだ13の山城を歩いて、戦国の時代の息吹を感じてほしい。備中松山城[岡山県]「おしろやま」として市民に親しまれる標高日本一の天守が現存する山城日本三大山城のひとつに数えられる備中松山城。そこには中世と近世の城郭跡が共存している。さらに、山城唯一の現存天守や岩を生かした石垣など見どころは尽きない。雲海展望台から天守が建つ臥牛山と高梁市の町を望む。秋から冬には雲海が見られることもあり、“天空の城”としても有名に。近世の城跡から戦国の砦へ 時代を遡る山城歩きが妙味山間を縫ってゆったりと横たわる清流、高梁川。その川沿いに細長く開けた城下町はかつて松山と呼ばれ、明治2年(1869)に地名は高梁と改められた。武家屋敷や町人町など今も随所に城下の趣を残す町筋。町中から北側を見上げると、臥牛山がそびえ、頂付近の木々の間からは天守が見え隠れしている。日本三大山城のひとつに数えられる備中松山城の中核だが、実はこの天守、日本一の標高にある現存天守なのである。標高430mの小松山城跡。二層二階の天守や二重櫓など、近世の城郭の姿を今に伝える。右下は麓にある石火矢町の武家屋敷通り。「備中松山城は臥牛山の全域に広がっているのですが、実は天守の建つ小松山は近世城郭の部分です。そしてその奥の大松山などが戦国時代の城域。つまり時代によって築城範囲が移り変わっているのがこの山城の大きな特徴です」そう話すのは高梁市教育委員会の三浦孝章さん。臥牛山には大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰があり、急峻な地形を生かしてかつては山全体に21もの砦が展開していたという。小松山はもともと大松山と同様の中世の城郭だったが、天正2年(1574)の「備中兵乱」で、当時の城主・三村氏から毛利氏に支配が変わった後、石垣や土塀などを擁する近世城郭に造り替えられていった。「この山城を歩く一番の醍醐味は、中世と近世の両方の時代が楽しめることなんですよ」臥牛山に初めて城が築かれたのは鎌倉時代の延応2年(1240)。その後、戦乱の世では城主は高橋氏、秋庭氏、上野氏、庄氏、三村氏と目まぐるしく変遷。山陰と山陽を結ぶ備中国の中央に位置するこの地は、戦略的に重要な地であったため、城は守りを堅めるため時代と共に堀や出丸など縄張りを拡張。規模が最も大きかったとされるのが先出の備中兵乱の頃で、城主の三村元親は山塊全体を要塞化した。しかし三村勢は籠城半年で毛利8万の大軍に滅ぼされてしまう。さらに、関ヶ原の戦いの後に毛利から小堀正次、政一(遠州)親子が備中国奉行として城を守り、その後は池田氏、水谷氏と城主が変わっていく。水谷氏は三代にわたって町造り、高梁川の水運、小松山の天守の修復(現存天守の原型)など功績を残したが、三代目で家は絶えたことで領地は没収。この時、城受け取り城代として1年間在番したのが、播州赤穂藩家老の大石内蔵助だった。「昔の登城口から登って行くと、途中には大石内蔵助の腰掛け石と伝わる石があります」と三浦さん。麓からの登城道は急坂が続く深い山道。大石も登城の際にひと休みしたのだろう。現在は城見橋公園駐車場まで車かタクシーで行ってシャトルバスに乗り換え、終点のふいご峠から歩いて本丸に向かうのが一般的。もちろん当時の気分で登城するなら麓から歩くのもいい。本丸まで約1時間の行程だ。ちなみに腰掛け石は、ふいご峠を7分ほど下ったところにある。さて、ふいご峠から整備された山道を歩くこと約15分、中太鼓櫓跡を過ぎて大手門跡へ向かうと、木々の間から突如姿を現した見上げるほどの岩壁に思わず息をのんだ。荒々しく切り立った岩の上にはなんと石垣と土塀が組まれている。真下に来ると身震いするほどの迫力に満ちている。青紅葉が映える大手門跡横の石垣。花崗岩の荒々しい岩壁の上に石垣が組まれているのがよくわかる。「臥牛山は花崗岩質の山なんですが、その天然の岩盤を巧みに取り込んで城を築いているんです」天守や二重櫓の基礎も同様に岩盤を利用。これぞ山城! といえる圧巻の光景である。さらに大手門から枡形虎口の石段を上り、三の丸、厩曲輪、二の丸へとくねくねと屈折しながら歩みを進める。曲輪ごとに連なる石垣群、山城としては珍しい土塀など見どころは盛り沢山。そして本丸までたどり着くと、正面に二層二階の天守が構えていた。天守は背後に建つ二重櫓と共に国指定重要文化財に指定されている。大きく広がった唐破風や連子窓が美しい。この天守、常陸国から入封した水谷家の二代目・勝宗によって天和3年(1683)に修築された時のもの。幕末の廃城の後は長く放置され荒れていたが、昭和になって土塀や二重櫓などと共に大規模な解体修理が施され、二層二階の優美な層塔型の姿が甦った。さて本丸を後にして次は戦国時代、中世の城跡の大松山方面へと向かうことにする。水の手門跡を過ぎると山は深さを増し、足を運ぶ人も少なくなる。大堀切に架かる土橋を渡って備中兵乱の戦場となった相畑城戸跡へと進み、さらに臥牛山の最高峰・天神の丸跡(標高480m)へ。あたりはブナ科のアベマキやコナラが鬱蒼と茂っている。そしてその緑の先には別名〝血の池〟とも呼ばれる石積の大池があった。首や刀を洗ったとも、籠城のための貯水槽ともいわれるが、江戸時代の絵図には舟が浮かぶ様子も見られるという。現在発掘調査中で用途はまだ分からないそうだが、四角い形や下へ降りる石段らしきものもあり、想像と興味は尽きない。大池から最後の目的地の大松山城跡へは10分ほどでたどり着く。三浦さんがぐるり指さす四方には、堀切や曲輪などの山城の砦の特徴がうっすら見てとれるが、今は木々に覆われ、城跡は〝兵どもが夢のあと〟の如く静かだ。山の中に息を潜めるように残る中世城郭の遺構。備中国の戦略拠点となった山城はこの砦から始まり、最後の城主・板倉氏が治めた明治維新まで長い歴史が紡がれ、今にその姿を伝えていた。岩村城[岐阜県]女城主の悲話で知られる苔に覆われた美しい石垣が残る城戦国時代に尾張の織田、甲斐の武田が覇権を争った岩村城。江戸時代に近世城郭として整備され、山上には苔むした石垣や豪快な六段壁が今も残る。日本三大山城のひとつ。上空から見た岩村城。右下に追手道。六段壁の上部が本丸、右の森が二の丸。日本一高い山城だ。六段壁と石垣の本丸に霧が漂う幻想的な山城岩村城の城下町には今も江戸時代が息づく。酒蔵や古い商家が並ぶ本通りは国の重要伝統的建造物群保存地区。桝形を過ぎて緩やかな坂道を行くと、正面に岩村城がその姿を現す。あいにくの空模様で緑の城山には靄がかかっていた。案内役の恵那市役所・三宅唯美さんと共に、山麓にある藩主居館跡から城下を見下ろした。「ここから岩村藩2万石の城下町が一望できます。岩村城には天守がなく、追手門の三重櫓やぐらが一番大きな建造物でした。今は森に覆われていますが、江戸時代は城下の本通りから、正面に岩村城の象徴ともいえる三重櫓が見えました」城下町から見える三重櫓。さぞや見事な景観だったろう。現在は城の建造物は一切残っていない。「現在残っている遺構は関ヶ原の合戦後に近世城郭として整備されたもので、戦国時代の山城については詳細がよくわかっていません。所々に中世の山城の名残を見ることができます」本丸南面の石垣。複雑な造りの石垣が歳月も経て、圧倒的な存在感を放っている。石垣の城・岩村城の顔だ。現在の登山ルートは、江戸時代の追手道にあたる北側の尾根道だ。近年になって造られた石畳の道が続く。初門を過ぎると防御のためにくねくねした道に変わる。「中世の山城の名残は四方に広がる尾根筋。枝の部分がよく残っています。曲く る わ輪や尾根を分断する堀切、縦堀も造られています」一の門を過ぎると道の両側に石垣が見られるようになる。森の中にひっそり残る苔むした石垣。その佇まいは幻想的ですらあった。最初の見どころは追手門跡だ。手前に土と き岐門、角馬出しがあり、この尾根で最大の堀切には畳んで敵を遮断できる畳橋が架けられ、追手門につながっていた。脇の三重櫓からも敵を横矢で攻撃できるなど、何重にもわたる防御が考えられていた。三つの門と畳橋と三重櫓のあった戦略拠点。往時を想像して、しばし時を過ごした。追手門を過ぎると、縄張りは三の丸の八幡曲輪、二の丸、本丸が続く連郭式の配置になっている。やがて右手に高い石垣が見えてきた。菱櫓跡だ。その左手には俄坂門跡があったという。本丸の北側にある埋(うずみ)門。本丸の搦手になる。西脇には2重の納戸櫓、中に入ると二つの門があった。「中世の遠山氏の時代にはこの俄坂門が追手門だったと考えられています。この先には遠山氏の菩提寺・大円寺があり、城下町だった可能性があります」中世の追手門にたどり着いたところで、岩村城の歴史を紐解いてみよう。岩村は遠山荘という荘園で、源頼朝の家臣・加藤景廉の領地となった。それから数えると、築城800年といわれるが、実際に山城が築かれたのは16世紀の初めと見られる。戦国時代になると、岩村は激動の時代を迎える。「岩村は信濃と美濃の境に位置する絶妙な場所にあり、東から甲斐の武田信玄・勝頼、西から織田信長に狙われるようになった」弘治元年(1555)、武田信玄の軍勢が岩村に侵攻。これ以降、遠山氏をはじめ岩村衆は武田軍団として活動するようになる。元亀3年(1572)、遠山景任が亡くなり当主が不在になった機に乗じて、織田信長が五男の御坊丸を養子として岩村城に送り込んだ。信長の叔母・景任未亡人は女城主といわれるが、実際には後見人だったと考えられている。しかし、同年11月、岩村は武田方に戻った。従来の説では秋山虎繁を総大将に武田方が岩村城を攻め、景任未亡人を妻とすることを条件に無血開城したといわれていた。近年の研究では、岩村城の自発的な判断で、武田方に単独で帰順したと考えられている。武田との結び付きが強かったのだ。翌年、長篠の戦いで信長軍が勝頼軍を破ると状況は一変する。『信長公記』によれば、織田軍が岩村城を取り囲み、半年籠城の末に落城した。秋山虎繁と武将は長良川河原で磔はりつけ、家臣は皆殺しにされた。一説によると虎繁と夫人は逆さ磔で処刑されたともいう。「織田を裏切ったといわれますが、景任が亡くなった後の数カ月を除いて、岩村城は最初から最後まで武田方の城でした」岩村城を巡る攻防戦はこの時と小牧長久手の合戦、関ヶ原の合戦の計3回あったが、寄せ手がどこを攻め、城側がどう応戦したか、詳細はわかっていないという。時代を再び戦国から江戸時代に戻そう。菱櫓から本丸方向を見ると、巨大な石垣が目に入る。雛壇状になった石垣だ。その名も六段壁。石垣の城・岩村城の中でも、圧倒的な存在感で迫って来る。「六段壁は初めに最上段の石垣を一気に立ち上げ、その後に崩落の危機があったため上から順に石垣を積み上げて補強したものです」岩村城はこの六段壁をはじめ見事な石垣が本丸を囲む。竹田城跡にも負けない、壮大な石垣の城であり、もっと知られてもよい山城であろう。これらの石垣は慶長6年(1601)に城主となった松平家乗が、近世城郭として本格的な整備をした際に造られたものだ。本丸西側の高石垣。一番下の石は野面積み、上部は積み直しで斜めの線など修理の跡が見える。「石垣は野面積み、打ち込みはぎ、切り込みはぎなど時代によって違う積み方を見ることができます。積み直した跡もあります」六段壁横の石段から本丸へ。二の丸は植林され見通しが良くないが、岩村城が広壮な山城であることがわかる。「2万石の小藩に大きな城があった。岩村城の最大の特徴です」岩村城は急峻な山城であるにもかかわらず、関ヶ原後も廃城にならなかった。理由は岩村のポジションだ。徳川家康は尾張の北の美濃に大きな藩を造らず、有事の後方支援のために、東美濃の岩村に譜代大名を置いた。譜代の格付けと有事の備えのために、幕府に大きな城を造らされたという。「岩村城は近世の城跡が後世の建造物もなく、手つかずに残っていることが大きな魅力です。江戸時代の城と城下町を体験できます」いつの間にか本丸に霧が立ち込めてきた。岩村城は別名・霧ケ城。霧の名所である。歴史上の戦の際にも、この霧が大きな役目を果たしたという。女城主や信長が見たであろう霧。歴史が残した最大の名残は霧なのかもしれない。※こちらは男の隠れ家2018年3月号より一部抜粋しておりますRecommend Contents「自分だけの世界を楽しむ -大人の趣味3選-」普段は眠ったままの感性を揺さぶり、新たな自己表現の一歩を引き寄せる趣味。今回はそんな趣味の中から、一風変わった”大人の趣味”を紹介します。今まで感じたことのない魅力を心ゆくまで味わってみてください。ーー続きはこちらから「超精密スーパーカー消しゴム 第一弾 ランボルギーニ」1970年代後半に巻き起こったスーパーカーブームで人気グッズだった「スーパーカー消しゴム」を現代に復刻ーー商品の詳細はこちら

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