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男の隠れ家コンテンツ

  • Lake and Canoe CAMP -やってみません?ソロキャンプ-

    船でしか行けない極上のサイトで、水上散歩と脱俗を存分に堪能する。ソロキャンプの魅力は、何もしないで自然に身を任せることだ。しかし時には刺激的なアクティビティをプラスするのも悪くない。そんな贅沢な時間を味わえる湖畔のサイトへ出かける。非日常の空間に身を置ける湖畔のキャンプサイトへ東京からほど近いレジャースポット・神奈川県相模湖に、船でしか行くことのできないキャンプ場があることを、キャンプ好きの知人から知らされた。しかも現地ではカヌースクールも開かれているらしい。最近はすっかりカヌーから遠ざかっていたから、ここでキャンプ&カヌーと共に楽しめれば、ちょうどいいリハビリになるだろう。この非日常空間は、もともとは子どもたちのためのキャンプ場という性格が強い素朴さも魅力。ということでキャンプ道具を車に放り込み、すぐさま相模湖へ進路をとった。地図を見ると、目指す「相模湖みの石滝キャンプ場」(神奈川県相模原市)は、相模湖の南東奥、石老山の尾根が落ち込んだ付近に位置している。そこは相模湖の一番奥まった入江といっても過言ではなく、よほどの荒天にでもならない限り、静かな湖水が迎えてくれるはず。とにかく、船でしか渡れないので、持っていく道具や食材はコンパクトにまとめる必要がある。そこで今回はサムソナイト・ジャパンのグレゴリーザックにテントやテーブル&チェアといった大物を詰め込み、食材保管用にはソフトクーラーバッグを活用する。そして食材はなるべく現地の農協直売所で購入し、荷物で身動きが取れなくならないように注意した。ただし、全天候で役立つタープだけは必携アイテムである。キャンプ場に渡るための船着場は、相模湖の北東岸にある神奈川県立相模湖公園の西側にある「ヤマグチボート」。その佇まいは50年代のアメリカのボートハウスを真似た日本のビーチハウス、といった雰囲気だ。責任者の木内さんと談笑していると、迎えの船が近づいてきた。胸を躍らせつつ船上の人となったのである。山道散策やカヌー体験などアクティビティも充実船で湖上を渡ること約10分。船はカヌーやカヤックがズラリと並んだ桟橋に接岸する。桟橋の目の前は広場になっていて、一段高い場所にある建物が売店を兼ねた受付だ。まずはここでチェックイン。繁忙期以外はテントを張る場所を選ぶことができる。せっかくなのでこの畔、桟橋を渡ったすぐの広場にニーモのテント「ギャラクシーストーム」を張ることにした。サイトの準備が完了したところで、まずは周辺を散策してみる。サイトからキャンプ場の名前にもなった「みの石滝」への山道が続いている。なかなかの急坂を登ること15分、岩肌をどうどうと音を立てて流れ落ちる2段の滝が現れた。その前に立つと、心身共に洗われたような気分になる。そしてこのキャンプ場の大きな魅力が、本格的なカヌースクールを開催していることだ。小学生から大人まで、2時間の基本プログラムが組まれる。インストラクターを務める山口英治さんは先ほど渡船を操船した方で、キャンプ場のオーナーでもある。もちろん、ひとたびカナディアンカヌーで水上に出れば、見事なパドリングを披露してくれる。キャンプ場では船が日常生活の必需品であるため、独特のパドルワークが確立していったという。特に桟橋からカヌーに乗り降りするため、細やかな船のコントロールに長けたパドリングに特化している。カヌーの船内を濡らさないという、みの石の美学も脱帽ものだ。クールはカナディアンカヌーだけでなくシットオンタイプのカヤック、さらにはレーシング艇の体験も可能。1日体験コースも用意されている。経験者なので楽勝と思っていた私だが、山口さんの前では情けない限りのパドリング。それでも流れもなく、入江の奥なので風や波の影響もほとんどない最高のロケーションで漕いでいるうちに、少しは勘が戻り、水上散歩を心ゆくまで楽しんだ。男ひとりのキャンプの夜は手抜き料理に尽きるカヌーを存分に堪能した後、夕食の準備のためにまずは火をおこす準備に取りかかる。用意したのは焚き火を最大限に活用できるコンパクトな調理台「笑'sB‐6君」である。これはポケットサイズの焚き火台なので、ザックの中に余裕で忍ばせておけるのだ。そしてこのキャンプ場で販売されている薪は、炊事用のものと焚き火用の太めのものがある。コンパクトな焚き火台でも、薪を上手に組み合わせることで、火を長時間キープすることができるのだ。それに重かったが大小のスキレットを準備し、メイン料理は地元野菜とサーモンの切り身を使った、和風サーモン&野菜グリルを作ることにした。和風というのは、味付けにしょう油と塩昆布、煎りゴマを使っているから。スキレットはフタを活用すれば余熱で調理することもでき、大変便利である。作り方はいたってシンプル。適当な大きさに切った食材をスキレットに並べ、塩コショウを振ったらオリーブオイルをかけ回す。それを焚き火台の上に載せる。最後に味付けのしょう油、塩昆布、すりゴマを加えるだけだ。それだけでは寂しいので、ベーコンの塊を串に刺し、火で炙っただけのワイルドな一品と、3枚のミニスキレットで椎茸バター、茄子チーズ、ジャガイモのマヨネーズソテーを作った。全てオヤジが好きな夜のおつまみ系ばかりだ。どれもざっくりと火にかけ、食材に軽く火通ったらフタをして余熱で仕上げるだけという、ものぐさ料理の代表格と言える。人里離れた湖畔のキャンプ場では、夜になると聞こえてくるのは岸辺に打ち寄せるさざ波の音と、虫の声だけ。時おり焚き火が爆ぜるのが、心地良いアクセント。楽しみながら用意した肴を口に運びつつ、ひとり至福の夜を味わう。焚き火台の炎を眺めているだけで、いつの間にか夜が更けてしまった。じっくりと時間をかけて燃やした薪は、もうほとんど残っていない。これならば、明日の片付けで手間取ることはないはず。のんびりとコーヒーを楽しむこともできるはずだ。そんな最高の夜を提供してくれたキャンプ場に感謝しつつ、心地良い眠りに就いた。※当記事の情報は雑誌掲載時のものです。Recommend Contents 詳しくはバナーをクリック↓Muthos Homura ブッシュクラフトナイフ プロミネンス 焚火作業に特化した左右非対称の刃(直刃+蛤刃)の本格ブッシュクラフトナイフです。バトニング、フェザリング、料理にも万能な5.5mmの極厚ブレードをもつ唯一無二のナイフ。詳しくはバナーをクリック↓1.0L トリップケトル日本の湯沸かし器の代名詞である「急須」からインスピレーションを受けたノスタルジックなデザインのケトル。

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  • ゆる宿Voketto【男の隠れ家限定】古民家ゲストハウス利用権

    「ゆる宿Voketto」は、築140年を超える古民家をリノベーションしたゲストハウスです。この宿は、世界中をバックパックで旅して回ったオーナー、三髙菖吉さんによって設立されました。三髙さんは、この古民家の素敵な梁を見た瞬間にその魅力に惚れ込み、ゲストハウスに生まれ変わらせることを決意。そんな想いが込められた古民家で、大自然と親しむ非日常的な体験を提供しています。大井川鐵道でSLも見れますし、夜には満天の星空や心地よい焚き火体験など、都会では味わえないような豊かな自然を楽しめますよ。 日々の喧騒から離れて、自分自身に立ち返ることができるような、ゆったりとした時間を過ごすことができるのが「ゆる宿Voketto」の魅力です。木の温かみを感じる雰囲気の中で、オーナー自ら手作りしたテーブルやこだわりのアイテムに囲まれながら、日頃のストレスを発散してみませんか?好みに合わせて選べる滞在スタイル。「ゆる宿Voketto」には2種類のお部屋が用意されています。8畳和室と16畳和室の2種類で、「8畳和室」は昔ながらの畳と障子、ふすまが楽しめる懐かしさが溢れるお部屋です。少人数でのご利用、宿泊費を安く抑えたい方や他の宿泊者との交流を楽しみたい方におすすめのお部屋となっています。16畳和室「離れ個室16畳 ~トキハナレ~」はオーナー自らがリノベーションした個室空間で、こだわりが満載。天然ウールの断熱材を天井、壁、床内に敷き詰めているため、昔ながらの雰囲気にも関わらず快適で暖かい空間を実現しました。天井の一部には天竜杉を、壁にはスペイン漆喰を使用し、床には和紙の畳を採用。天然素材にこだわり抜いた空間作りがされているので、自然の温もりを直に感じられますよ。 なお、この個室は母屋から離れているため、プライベートな時間を過ごすのにも最適です。カップルや家族での利用におすすめで、静かで落ち着いた雰囲気の中、ゆったりとした滞在を楽しむことができます。料金は、1部屋28,000円~で、4人の滞在が可能。その後、1人あたり5,000円で追加でき、最大6人まで宿泊できます。友人グループでの滞在もできるくらいのキャパがあるのは嬉しいですね。「男の隠れ家限定プラン」をご紹介!今回、男の隠れ家PREMIUM限定で、当サイトで人気の「ヨコザワテッパンポケット」を使用し、地元川根本町産の「鹿肉ソーセージ」を焼いて楽しむ、ミニBBQが楽しめる特別なプランをご用意しました!「ヨコザワテッパンポケット」の魅力はコンパクトさからは想像できない実用性。縁なしのデザインによって余計な脂分が落ちてヘルシーな調理ができます。アウトドアのプロによって計算された大きさと厚みのおかげで、食材がこんがりと美味しく焼けて、良い感じに焦げ目もついてくれるので、お肉や野菜がシズル感満載で美味しくなります。本格的な機材を用意せずとも、レベルの高いキャンプ飯が超簡単に楽しめてしまいますよ。しかも、「鹿肉ソーセージ」は地元の川根本町産。ジビエ肉の魅力を存分に引き出した逸品で、ジビエ初心者から愛好家まで幅広く楽しめる味わいが特徴です。独自のレシピで作られたこのソーセージは、野生の風味を残しつつも、繊細なスモークの香りとさっぱりとした旨味がポイント。高品質な天然羊腸を使用しており、食感も極上です。大自然の中でソーセージを焼いてひたすら頬張る。そしてビールを飲む。そんなシンプルで贅沢な楽しみ方ができるのは、男の隠れ家PREMIUM限定プランだけ。最高の空間に合わせて、最高の食事も楽しんでみてくださいね。いつも頑張る自分に、非日常というご褒美を。「ゆる宿Voketto」で過ごす時間は、日常を忘れさせる非日常の体験。いつも頑張る自分へのご褒美として、自然に囲まれた静かな環境でリラックスし、新しいエネルギーを充電する絶好の機会です。ここでしか味わえない特別な時間を、ぜひご自身で体験してみてはいかがでしょうか。【商品詳細】商品名:ゆる宿Voketto【男の隠れ家限定】古民家ゲストハウス利用権[16畳和室]価格:28,000円(税込) 商品の詳細はこちら商品名:ゆる宿Voketto【男の隠れ家限定】古民家ゲストハウス利用権[8畳和室]価格:9,500円 ~ 26,000円(税込) 商品の詳細はこちら

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  • 全国山城紀行。

    城というと、立派な天守があり高い石垣と広い水堀に囲まれているイメージがある。しかし城のほとんどは時代の背景から山の地形を利用した山城なのだ。「男の隠れ家」が選んだ13の山城を歩いて、戦国の時代の息吹を感じてほしい。備中松山城[岡山県]「おしろやま」として市民に親しまれる標高日本一の天守が現存する山城日本三大山城のひとつに数えられる備中松山城。そこには中世と近世の城郭跡が共存している。さらに、山城唯一の現存天守や岩を生かした石垣など見どころは尽きない。雲海展望台から天守が建つ臥牛山と高梁市の町を望む。秋から冬には雲海が見られることもあり、“天空の城”としても有名に。近世の城跡から戦国の砦へ 時代を遡る山城歩きが妙味山間を縫ってゆったりと横たわる清流、高梁川。その川沿いに細長く開けた城下町はかつて松山と呼ばれ、明治2年(1869)に地名は高梁と改められた。武家屋敷や町人町など今も随所に城下の趣を残す町筋。町中から北側を見上げると、臥牛山がそびえ、頂付近の木々の間からは天守が見え隠れしている。日本三大山城のひとつに数えられる備中松山城の中核だが、実はこの天守、日本一の標高にある現存天守なのである。標高430mの小松山城跡。二層二階の天守や二重櫓など、近世の城郭の姿を今に伝える。右下は麓にある石火矢町の武家屋敷通り。「備中松山城は臥牛山の全域に広がっているのですが、実は天守の建つ小松山は近世城郭の部分です。そしてその奥の大松山などが戦国時代の城域。つまり時代によって築城範囲が移り変わっているのがこの山城の大きな特徴です」そう話すのは高梁市教育委員会の三浦孝章さん。臥牛山には大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰があり、急峻な地形を生かしてかつては山全体に21もの砦が展開していたという。小松山はもともと大松山と同様の中世の城郭だったが、天正2年(1574)の「備中兵乱」で、当時の城主・三村氏から毛利氏に支配が変わった後、石垣や土塀などを擁する近世城郭に造り替えられていった。「この山城を歩く一番の醍醐味は、中世と近世の両方の時代が楽しめることなんですよ」臥牛山に初めて城が築かれたのは鎌倉時代の延応2年(1240)。その後、戦乱の世では城主は高橋氏、秋庭氏、上野氏、庄氏、三村氏と目まぐるしく変遷。山陰と山陽を結ぶ備中国の中央に位置するこの地は、戦略的に重要な地であったため、城は守りを堅めるため時代と共に堀や出丸など縄張りを拡張。規模が最も大きかったとされるのが先出の備中兵乱の頃で、城主の三村元親は山塊全体を要塞化した。しかし三村勢は籠城半年で毛利8万の大軍に滅ぼされてしまう。さらに、関ヶ原の戦いの後に毛利から小堀正次、政一(遠州)親子が備中国奉行として城を守り、その後は池田氏、水谷氏と城主が変わっていく。水谷氏は三代にわたって町造り、高梁川の水運、小松山の天守の修復(現存天守の原型)など功績を残したが、三代目で家は絶えたことで領地は没収。この時、城受け取り城代として1年間在番したのが、播州赤穂藩家老の大石内蔵助だった。「昔の登城口から登って行くと、途中には大石内蔵助の腰掛け石と伝わる石があります」と三浦さん。麓からの登城道は急坂が続く深い山道。大石も登城の際にひと休みしたのだろう。現在は城見橋公園駐車場まで車かタクシーで行ってシャトルバスに乗り換え、終点のふいご峠から歩いて本丸に向かうのが一般的。もちろん当時の気分で登城するなら麓から歩くのもいい。本丸まで約1時間の行程だ。ちなみに腰掛け石は、ふいご峠を7分ほど下ったところにある。さて、ふいご峠から整備された山道を歩くこと約15分、中太鼓櫓跡を過ぎて大手門跡へ向かうと、木々の間から突如姿を現した見上げるほどの岩壁に思わず息をのんだ。荒々しく切り立った岩の上にはなんと石垣と土塀が組まれている。真下に来ると身震いするほどの迫力に満ちている。青紅葉が映える大手門跡横の石垣。花崗岩の荒々しい岩壁の上に石垣が組まれているのがよくわかる。「臥牛山は花崗岩質の山なんですが、その天然の岩盤を巧みに取り込んで城を築いているんです」天守や二重櫓の基礎も同様に岩盤を利用。これぞ山城! といえる圧巻の光景である。さらに大手門から枡形虎口の石段を上り、三の丸、厩曲輪、二の丸へとくねくねと屈折しながら歩みを進める。曲輪ごとに連なる石垣群、山城としては珍しい土塀など見どころは盛り沢山。そして本丸までたどり着くと、正面に二層二階の天守が構えていた。天守は背後に建つ二重櫓と共に国指定重要文化財に指定されている。大きく広がった唐破風や連子窓が美しい。この天守、常陸国から入封した水谷家の二代目・勝宗によって天和3年(1683)に修築された時のもの。幕末の廃城の後は長く放置され荒れていたが、昭和になって土塀や二重櫓などと共に大規模な解体修理が施され、二層二階の優美な層塔型の姿が甦った。さて本丸を後にして次は戦国時代、中世の城跡の大松山方面へと向かうことにする。水の手門跡を過ぎると山は深さを増し、足を運ぶ人も少なくなる。大堀切に架かる土橋を渡って備中兵乱の戦場となった相畑城戸跡へと進み、さらに臥牛山の最高峰・天神の丸跡(標高480m)へ。あたりはブナ科のアベマキやコナラが鬱蒼と茂っている。そしてその緑の先には別名〝血の池〟とも呼ばれる石積の大池があった。首や刀を洗ったとも、籠城のための貯水槽ともいわれるが、江戸時代の絵図には舟が浮かぶ様子も見られるという。現在発掘調査中で用途はまだ分からないそうだが、四角い形や下へ降りる石段らしきものもあり、想像と興味は尽きない。大池から最後の目的地の大松山城跡へは10分ほどでたどり着く。三浦さんがぐるり指さす四方には、堀切や曲輪などの山城の砦の特徴がうっすら見てとれるが、今は木々に覆われ、城跡は〝兵どもが夢のあと〟の如く静かだ。山の中に息を潜めるように残る中世城郭の遺構。備中国の戦略拠点となった山城はこの砦から始まり、最後の城主・板倉氏が治めた明治維新まで長い歴史が紡がれ、今にその姿を伝えていた。岩村城[岐阜県]女城主の悲話で知られる苔に覆われた美しい石垣が残る城戦国時代に尾張の織田、甲斐の武田が覇権を争った岩村城。江戸時代に近世城郭として整備され、山上には苔むした石垣や豪快な六段壁が今も残る。日本三大山城のひとつ。上空から見た岩村城。右下に追手道。六段壁の上部が本丸、右の森が二の丸。日本一高い山城だ。六段壁と石垣の本丸に霧が漂う幻想的な山城岩村城の城下町には今も江戸時代が息づく。酒蔵や古い商家が並ぶ本通りは国の重要伝統的建造物群保存地区。桝形を過ぎて緩やかな坂道を行くと、正面に岩村城がその姿を現す。あいにくの空模様で緑の城山には靄がかかっていた。案内役の恵那市役所・三宅唯美さんと共に、山麓にある藩主居館跡から城下を見下ろした。「ここから岩村藩2万石の城下町が一望できます。岩村城には天守がなく、追手門の三重櫓やぐらが一番大きな建造物でした。今は森に覆われていますが、江戸時代は城下の本通りから、正面に岩村城の象徴ともいえる三重櫓が見えました」城下町から見える三重櫓。さぞや見事な景観だったろう。現在は城の建造物は一切残っていない。「現在残っている遺構は関ヶ原の合戦後に近世城郭として整備されたもので、戦国時代の山城については詳細がよくわかっていません。所々に中世の山城の名残を見ることができます」本丸南面の石垣。複雑な造りの石垣が歳月も経て、圧倒的な存在感を放っている。石垣の城・岩村城の顔だ。現在の登山ルートは、江戸時代の追手道にあたる北側の尾根道だ。近年になって造られた石畳の道が続く。初門を過ぎると防御のためにくねくねした道に変わる。「中世の山城の名残は四方に広がる尾根筋。枝の部分がよく残っています。曲く る わ輪や尾根を分断する堀切、縦堀も造られています」一の門を過ぎると道の両側に石垣が見られるようになる。森の中にひっそり残る苔むした石垣。その佇まいは幻想的ですらあった。最初の見どころは追手門跡だ。手前に土と き岐門、角馬出しがあり、この尾根で最大の堀切には畳んで敵を遮断できる畳橋が架けられ、追手門につながっていた。脇の三重櫓からも敵を横矢で攻撃できるなど、何重にもわたる防御が考えられていた。三つの門と畳橋と三重櫓のあった戦略拠点。往時を想像して、しばし時を過ごした。追手門を過ぎると、縄張りは三の丸の八幡曲輪、二の丸、本丸が続く連郭式の配置になっている。やがて右手に高い石垣が見えてきた。菱櫓跡だ。その左手には俄坂門跡があったという。本丸の北側にある埋(うずみ)門。本丸の搦手になる。西脇には2重の納戸櫓、中に入ると二つの門があった。「中世の遠山氏の時代にはこの俄坂門が追手門だったと考えられています。この先には遠山氏の菩提寺・大円寺があり、城下町だった可能性があります」中世の追手門にたどり着いたところで、岩村城の歴史を紐解いてみよう。岩村は遠山荘という荘園で、源頼朝の家臣・加藤景廉の領地となった。それから数えると、築城800年といわれるが、実際に山城が築かれたのは16世紀の初めと見られる。戦国時代になると、岩村は激動の時代を迎える。「岩村は信濃と美濃の境に位置する絶妙な場所にあり、東から甲斐の武田信玄・勝頼、西から織田信長に狙われるようになった」弘治元年(1555)、武田信玄の軍勢が岩村に侵攻。これ以降、遠山氏をはじめ岩村衆は武田軍団として活動するようになる。元亀3年(1572)、遠山景任が亡くなり当主が不在になった機に乗じて、織田信長が五男の御坊丸を養子として岩村城に送り込んだ。信長の叔母・景任未亡人は女城主といわれるが、実際には後見人だったと考えられている。しかし、同年11月、岩村は武田方に戻った。従来の説では秋山虎繁を総大将に武田方が岩村城を攻め、景任未亡人を妻とすることを条件に無血開城したといわれていた。近年の研究では、岩村城の自発的な判断で、武田方に単独で帰順したと考えられている。武田との結び付きが強かったのだ。翌年、長篠の戦いで信長軍が勝頼軍を破ると状況は一変する。『信長公記』によれば、織田軍が岩村城を取り囲み、半年籠城の末に落城した。秋山虎繁と武将は長良川河原で磔はりつけ、家臣は皆殺しにされた。一説によると虎繁と夫人は逆さ磔で処刑されたともいう。「織田を裏切ったといわれますが、景任が亡くなった後の数カ月を除いて、岩村城は最初から最後まで武田方の城でした」岩村城を巡る攻防戦はこの時と小牧長久手の合戦、関ヶ原の合戦の計3回あったが、寄せ手がどこを攻め、城側がどう応戦したか、詳細はわかっていないという。時代を再び戦国から江戸時代に戻そう。菱櫓から本丸方向を見ると、巨大な石垣が目に入る。雛壇状になった石垣だ。その名も六段壁。石垣の城・岩村城の中でも、圧倒的な存在感で迫って来る。「六段壁は初めに最上段の石垣を一気に立ち上げ、その後に崩落の危機があったため上から順に石垣を積み上げて補強したものです」岩村城はこの六段壁をはじめ見事な石垣が本丸を囲む。竹田城跡にも負けない、壮大な石垣の城であり、もっと知られてもよい山城であろう。これらの石垣は慶長6年(1601)に城主となった松平家乗が、近世城郭として本格的な整備をした際に造られたものだ。本丸西側の高石垣。一番下の石は野面積み、上部は積み直しで斜めの線など修理の跡が見える。「石垣は野面積み、打ち込みはぎ、切り込みはぎなど時代によって違う積み方を見ることができます。積み直した跡もあります」六段壁横の石段から本丸へ。二の丸は植林され見通しが良くないが、岩村城が広壮な山城であることがわかる。「2万石の小藩に大きな城があった。岩村城の最大の特徴です」岩村城は急峻な山城であるにもかかわらず、関ヶ原後も廃城にならなかった。理由は岩村のポジションだ。徳川家康は尾張の北の美濃に大きな藩を造らず、有事の後方支援のために、東美濃の岩村に譜代大名を置いた。譜代の格付けと有事の備えのために、幕府に大きな城を造らされたという。「岩村城は近世の城跡が後世の建造物もなく、手つかずに残っていることが大きな魅力です。江戸時代の城と城下町を体験できます」いつの間にか本丸に霧が立ち込めてきた。岩村城は別名・霧ケ城。霧の名所である。歴史上の戦の際にも、この霧が大きな役目を果たしたという。女城主や信長が見たであろう霧。歴史が残した最大の名残は霧なのかもしれない。※こちらは男の隠れ家2018年3月号より一部抜粋しておりますRecommend Contents「自分だけの世界を楽しむ -大人の趣味3選-」普段は眠ったままの感性を揺さぶり、新たな自己表現の一歩を引き寄せる趣味。今回はそんな趣味の中から、一風変わった”大人の趣味”を紹介します。今まで感じたことのない魅力を心ゆくまで味わってみてください。ーー続きはこちらから「超精密スーパーカー消しゴム 第一弾 ランボルギーニ」1970年代後半に巻き起こったスーパーカーブームで人気グッズだった「スーパーカー消しゴム」を現代に復刻ーー商品の詳細はこちら

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  • 京都の隠れ家 路地裏迷宮

    碁盤の目状で区切られている京都の道。しかしメインストリートから一歩裏に入れば路地や辻子が入り組んで、まるで迷宮のようだ。その細い道の奥にそっと佇んでいる隠れ家の引き戸を開けてみよう。一見踏み入れがたい路地の奥で旬の地の食材で極みの味を堪能馳走 いなせや 〈烏丸御池〉入口の門の上には縁起飾りの“笑門”が。今城焼の陶板が敷き詰められたアプローチを奥へと進む。三条通の賑わいを避けて静かに佇む町家で美味探訪地鶏すきやきの木蓋を開けると、湯気と共にいい香りがふわり。山科と嵐山を結んで東西に延びる三条通。中心部には、東海道の起点でもあった鴨川に架かる三条大橋や、幕末期に起こった「池田屋事件」の舞台などがあり、また、明治時代には旧日本銀行京都支店(現・京都文化博物館)や中京郵便局など赤煉瓦の近代建築が建ち並ぶメインストリートのひとつであった。現在も通り沿いにはアーケード商店街と共に新旧の個性的な店が軒を連ね、京都きっての人気エリアとなっている。京都の面白いところは、碁盤の目に広がる縦横の道を一本ずらしただけで雰囲気が変わること。混在する賑やかな町筋と静かな佇まい。予約しておいた料理処「馳走いなせや」への道筋も、三条通から柳馬場通へと少し上ル(北ヘ曲がる)だけで、人の流れや店舗の明るさがすっと薄れた。通りの左手にぼんやりと浮かぶ行燈に誘われ、縁起飾りの〝笑門〟が下がる入口へと足を踏み入れる。清々しく打ち水された石畳に導かれ路地の奥へ。のちに店のスタッフに聞いたところ、敷き詰めた石畳は大阪の今城焼の陶板で、一つひとつに周辺の町名が刻まれているのだという。そして、白い暖簾がかかる引き戸を開けて中に入ると、そこには期待通りの落ち着いた空間が。靴を脱いで通されたテーブル席はさらに趣を深くしており、窓の外にはライトアップされた坪庭が美しく映し出されていた。建物は大正時代の呉服屋の町家だったもので、テーブル席とカウンター席のある1階は柱や梁など往時の趣を生かしてリノベーション。2階の座敷はそのまま残し、また4~6人の予約制で使える蔵座敷も用意されている。右上/馳走いなせや名物「地鶏すきやき」(1人前1800円)。右下/すきやきの最後の〆に玉子締めを味わうのがおすすめ(ご飯・香物付きで1人前500円)。左上/「平井牛ローストビーフ」(1800円)。左下/「秋ハモと丹波しめじの玉子とじ」(1300円)。※アラカルトのほか、コースも6200円~。かつて三条通のこのあたりは、呉服屋さんが軒を連ねていた場所でもあったんですよ」と話す店長の村上聡孝さん。「馳走いなせや」はその歴史に新しい感性を融合させ、洗練された空間と共に旬の創作料理を提供している。料理は生産者と地物の食材を使うことにこだわり、季節の京野菜はもちろん、肉や魚などもしかり。例えば名物の地鶏料理に使う鶏肉は、毎朝、丹波の契約養鶏場から届けてもらうのだという。丹念に4カ月ほどかけて育てられた丹波地鶏は地鶏刺しや塩焼き、唐揚げなどの料理に仕上げられるほか、一番人気の地鶏すきやきは、肉の旨みと甘みが際立つ逸品だ。お造り盛り合わせや菜物(サラダ)などを酒の肴として味わいながら、次に供されたその地鶏すきやきをいただく。ふわりと立ち上る湯気と共に漂う食欲をそそる甘辛い香り。ごろりと大きめの鶏もも肉、つくねの上には九条ネギがたっぷりと盛られている。はやる気持ちを抑えつつ取り碗に移して口に運ぶと、ぷりっとした歯ごたえながら柔らかな肉の旨味が口中に広がった。割下は砂糖と醤油をベースに甘味を押さえてコクを出したもの。これがまた、すき焼きの〆にご飯を入れて玉子とじで食すると絶品なのだ。しかもこの卵も地鶏の〝初玉子〟を使用。「鶏が生み始めて2週間目の卵のことで、卵黄が大きいんですよ」と村上さん。ほかにも京都丹波牧場の平井牛のローストビーフやしゃぶしゃぶ、お米は綾部で作られている低農薬のコシヒカリにこだわるなど、まさに地産地消にいなせやの味の原点がある。そして、料理と同様に力を入れているのが、蔵元直送の日本酒だ。店主やスタッフが実際に蔵元に足を運び、時に酒造りを手伝うこともあるとか。日本酒のメニューを見ると、蔵元や扱う銘柄の詳細な説明が記されており、店の思い入れの深さが感じられる。ラインアップは京都・伏見の「月の桂」(増田徳兵衛商店)や滋賀県大津の「浪乃音」(浪乃音酒造)を始め、京都府、滋賀県を中心に店オリジナルも多彩。しかもその多くが生原酒というのも特徴的だ。「丹波地鶏や丹波牛などしっかりとした味の料理には、生原酒が見事に合うんです」旨し料理に旨し酒。〝心を込めてもてなす、食事をふるまう〟という意味合いの〝馳走〟が名に恥じない隠れ家である。ちそう いなせや京都市中京区三条柳馬場上ル油屋町93京都らしさが漂う小さな路地で本格イタリアンと京懐石に舌鼓を打つ柳小路TAKA 〈河原町〉通りから店内が見渡せるので、待ち合わせの人も多い。昼から閉店までいる強者もいる。世界で活躍していたシェフが始めた気軽なバル美味しい料理と共にTAKAさんの軽妙な語り口に、引き込まれてしまうのがこの店の魅力。京都で一番の繁華街といっても過言ではない四条河原町。その交差点から1本西側にひっそりとある、一見目立たない路地が柳小路の入口である。かつては男性向けの店が建ち並んでいたというが、今では映画などのロケに使われるほど、古き良き時代の京都を彷彿させる光景が広がっている。そこには小さいながらも、強い個性が感じられる店が軒を連ねている。そんな柳小路の一角に、2016年5にオープンしたのが「柳小路TAKA」だ。1階はカウンターだけの立ち飲み、2階にはテーブル席が用意されているそのスタイルは、まさに隠れ家「日本版バル」といったところか。オーナーシェフのTAKAさんは、本格的な京懐石の店で修業した後、和食の素晴らしさを世界に広めたいという情熱を持ってイタリアに渡った。そしてミラノにある世界的な人気レストラン「NOBU/Armani」で、料理長を10年以上も務めた。さらにイタリアの調理師学校の講師も務め、日本の料理手法、魚の捌さ ばき方などを、多くのイタリア人シェフに教えていたという。まさに本場で磨き上げたイタリアンの腕前と京懐石が融合した〝本物の味〟が気軽に楽しめる店なのだ。誰もがすぐに常連気分で毎月足を運びたくなる①常連客に超人気の裏メニュー「レバー塩」(300円)。口に入れると濃厚な甘みと共にとろけてしまう絶品。②関さばの一夜干し。塩気が絶妙でご飯にも合う(800円)。③イタリアンの定番、ナスのトマトソース煮(500円)。④夕方になるとイタリア人が必ず飲むというスプリッツ。ほろ苦いアペロルとスパークリングワインのカクテル(600円)。⑤人気メニューの牛肉タタキは1200円。⑥揚げたごぼうがたっぷり入った卵かけご飯は550円。入口は大きなガラスの引き戸なので、賑やかな店内の雰囲気は通りからでも一目瞭然。この店には京都に来る度に通いたくなる要素が詰まっている。店は昼の13時にオープンし、そのまま23時まで通しで営業しているのも酒飲みにとっては嬉しい限り。実際、カウンターはほぼ満席で、店中のみんなが知り合いのように大いに盛り上がっている。翌日、改めて14時頃に店を訪ねた。やはりカウンターには数人の客が陣取り、店の人や初対面の隣同士で談笑している。「この店は一見さんでも、すぐに常連さんのようになるんです。外国の方だって同じです。言葉が通じなくても、お客さん同士でいつの間にか意気投合しています」時には2階席で飲んでいたグループが、1階があまりに楽しそうなので寂しくなり、下りてきてしまった、ということもあったという。それはTAKAさんの、とても海外の一流レストランで料理長を務めていたとは思えないほどの、気さくな雰囲気や人柄がそうさせるのだろう。そんなTAKAさんが作る絶品料理に魅了されるファンも多く、居合わせた常連らしき人にその魅力を尋ねると「旬の食材に合わせて料理も変化するから、毎月こぉへんとあかんわ」とのこと。昼に軽く飲み、夜になったら本格的に飲み食いをする。そうしたケースも度々あるのだという。そして日本酒のこだわりも面白い。ここでは滋賀の酒蔵「岡村本家」との縁で、同店で扱う日本酒はこちらの銘柄限定。代表銘柄の「金亀」の、40%~100%の精米歩合7種類を、全て飲み比べできるセットがある。美味しい料理とお酒、そして弾む会話で、時間を忘れさせてくれる名店であった。やなぎこうじ たか京都市中京区中之町577番柳小路はちべえ長屋※こちらは男の隠れ家2018年3月号より一部抜粋しておりますRecommend Contents「スクスク育つ牡蠣に会いに行く」日本で見られるリアス式海岸は遥か昔、起伏の激しい山地が海面の上昇や地盤沈下によりに海面に没したことで形成された。海面よりも上に残された陸地が、複雑に入り組んだ湾や島を創り出したのだ。氷河が形成した北欧のフィヨルドとは、生まれた背景が違う。ーー続きはこちらから有田焼 セラフィルター佐賀県有田町で作られ、江戸時代から400年以上の歴史をもつ有田焼。かつては、将軍家への献上品として、ヨーロッパへ影響を与えたと言われ、王侯貴族の蒐集品として重宝されたと言われています。ーー商品の詳細はこちら

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  • バイクに乗ってみませんか? -上州〜信州・志賀高原-

    ツインエンジンの鼓動と共に上州から信州の高原道路で涼風にやすらぐーー緑に囲まれたワインディングロードを軽やかに駆け抜ければ、ひと筋の道が遠くまで延びる高原ロードが目の前に。さあ、自分の時間を求めて上州から信州に続く快適な道を走ろう。バイクの醍醐味は爽やかな風に当たることだ「志賀草津高原ルート」。白根山の雄大な山容を右に見ながら快適な道が続くワインディングロードだ。並列2気筒・500㏄エンジンが奏でる排気音と、それに伴う鼓動の心地良さを感じながら高速道路をクルージングしている。前を走る車を抜こうという気も起きず、このまま流れに乗っているとどこまでも行けそうな気になってくる。両サイドの景色は視界の中で溶け込み、色の帯になって後方に流れていく。「ホンダレブル500」はまるで万華鏡の筒の中を走っているようだった。関越自動車道から上信越自動車道へとハンドルを切り、「松井田妙義IC」で高速を降りた。国道18号・中山道に入ると信越本線の「横川駅」はすぐ。横川駅といえば「峠の釜めし」。長野新幹線が開通するまでは、横川駅に長距離列車が着く度、乗客は駅弁の売り子から、峠の釜めしを買い求めていたというほどの名物。新幹線開通に伴い横川駅の先は廃止され、駅弁の売り子がホームに立つことはなくなったが、今は駅前本店やドライブイン、高速のSAなどで売られている。昼食には少し早いがここでこの名物を食べない手はない。腹を満たすことでまだ先の長いツーリングに備えることにしよう。連続するカーブを抜けて、道はいよいよ高原へ向かう左/「横川駅」から軽井沢までの道は緑に包まれて気持ち良い。右/旧信越本線のレンガ造りの橋梁(めがね橋)が突然現れる。横川駅の先で国道18号線に入り、坂本宿の看板を過ぎると道は勾配が急になり、タイトなカーブが連続する。そして突然、雄大な4連レンガアーチの鉄道橋梁が姿を現した。たくさんの観光客が車を停めて記念撮影をしている。実はこの橋梁、明治25年(1892)に完成したアーチ橋で、「めがね橋」と呼ばれている。ちなみに橋梁は第二橋梁から第六橋梁まで残っていて、その5基が全て国重要文化財に指定されている。道はいつの間にか平坦となり軽井沢の町に出た。観光客で賑わう町を抜け、浅間山の麓を整備された爽快な道が走る鬼押ハイウェーへ。道の両脇に明るい林が続く緑のトンネルをしばらく走ると左手に茶褐色の浅間山の姿が浮かぶ。ちょうど浅間山の展望を目的としたような浅間六里ヶ原休憩所が右手にあったので、しばし休息。目の前に迫る雄大な活火山をのんびりと眺めることにした。鬼押ハイウェーの浅間六里ヶ原休息所で眺める浅間山の勇姿。再び走り始め、いったん高原の道からJR吾妻線が走る嬬恋村まで下りてきた。とたんに体に感じる風は熱気を帯びてきた。熱風から逃れるように万座温泉方面に向かう万座ハイウェーに入り高地を目指す。力強いエンジンはドドドドッという鼓動と共に標高をどんどん稼いでいく。クルーザータイプなのだが、バンク角は意外に深く、ステップをすることもなく安定したコーナリングでカーブをクリアしていく。トルクフルなエンジンは頻繁なギアチェンジを必要としないのでとても楽だ。急勾配の九十九折りの道を走ること約30分。ヘルメット越しに硫黄の香りが鼻をくすぐると、そこは万座温泉だ。この辺りから道の周囲の木々が低くなり、ハイマツが目立つようになった。見通しが良くなり、下を覗くと今まで走ってきた道が遠くからうねうねとカーブを描いている様子が見える。草津温泉方面から延びる国道292号線と合流すると道は比較的なだらかになり、見晴らしの良い高原道路となった。この通称「志賀草津高原ルート」はどこまでも走りたくなるような道だ。ちなみに草津温泉方面からこの合流点までは白根山の火山活動の影響で通行止めになっているので注意したい。志賀草津高原ルートの天空を走るコーナー。標高が上がると景色も広がりを見せる。しばらく走ると道の右側に「日本国道最高地点」の標識が目に入った。ここは標高2172mの渋峠だ。バイクを停め、そこからの景色に目をやると、ラムサール条約に登録されている芳ヶ平湿地群や赤茶色の白根山が見える大展望が広がっていた。そろそろお腹もすいてきたなと感じる頃、横手山ドライブインに到着。志賀草津高原ルートの長野県渋温泉方面の景色が見える2階のレストランで「ライダーズランチ(1500円)」をオーダーして、窓際に腰を下ろした。目の前には視界を占める志賀高原のパノラマが広がっている。宿へ向かう道も選んで高原をつなぐ道を左/志賀草津高原ルートを長野県側に下りると渋温泉となる。路地の両側に昔ながらの風情ある温泉旅館が並ぶ。9つの外湯があり、宿泊者以外は9番湯大湯のみ利用できる。右/HONDA Rebel 500」特徴的に立ち上がったフューエルタンク、くびれのあるナロースタイル、マット&ブラックアウトに徹したパーツによってタフでCOOLなイメージを表現。ワイドサイズの前後タイヤが、ロー&ファットな存在感をアピールする。ほどなく猿が温泉に入ることで有名な地獄谷野猿公苑に。ひと休みするのに格好の「猿座カフェ」があった。自分のバイクを目の前に、風の吹き抜けるテラスで一服。他のテーブルは外国人観光客ばかりだ。カフェのスタッフが「この先にツーリングライダーが集まる蕎麦屋があるのよ」と教えてくれたので訪ねてみることに。カフェからすぐ、国道292号線沿いにその「そば禄」はあった。ここの特徴は蕎麦を注文すれば天ぷらが食べ放題。ご飯も食べ放題なので蕎麦を食べ終わったら天丼にして腹を満たす強者もいるらしい。お腹もいっぱいになって後は今宵の宿を目指すのみ。国道292号線をそのまま進み、信州中野で403号線へ。美術館やフルーツで有名な小布施、蔵造りの町家が連なる須坂を通り、ラグビーの夏合宿をしているグランドの合間にキャベツ畑が広がる菅平高原を経て、「休暇村嬬恋鹿沢」へ着いたのは熱気も収まった夕暮れだった。翌朝、疲れも残らずすっきり目覚めた。昨夜たっぷり浸かった温泉のおかげかもしれない。今日の予定は特に決めていない。のんびりと気持ちの良い高原道路を走って昼寝して帰ろうかな、ぐらいの気持ちだ。小諸へ出て、八ヶ岳の東麓をJR小海線沿いに国道141号線を南下して小淵沢に出るのも良し、途中から国道299号線を麦草峠に向かうも良しだ。麦草峠は昨日の渋峠に続いて国道の標高では2番目の高さ(2120m)だ。高原道路を走るコースは色々と設定できて楽しい。さあ出発だ。国道144号線に戻り、東へ向かう。昨日の爽快感をもう一度味わうために、鬼押ハイウェーに出て北軽井沢などを流して帰路につくことに決めた。※こちらは男の隠れ家2018年9月号より一部抜粋しております

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  • DEEP 沖縄

    本土ではすでに夏が過ぎ去り、錦秋の彩りが南下する頃、沖縄はまだまだ夏の残照が煌めいている。沖縄は夏ばかりではなく、秋こそベストシーズン。ディープな沖縄を楽しめる季節となる。秋、ゆっくり「島」を歩けば、見たことのない沖縄に出会えるかもしれない。沖縄に行くなら〝出会いの秋〟がいい「沖縄に行くなら、いつがいいですか?」とよく聞かれる。僕は迷わず「秋がいいです」と答える。沖縄も秋が深まると、暑さもようやくやわらぎ過ごしやすくなる。晩秋ともなれば、台風が襲来することも少ない。それでいて冬の気配を感じる本土と違い、穏やかな暖かさは十分に堪能できる。観光客も比較的少なめで、落ち着いて周れる。だから沖縄を旅するなら、秋がいい。秋の沖縄で、何をしようか。気合いを入れれば泳げるが、沖縄の魅力は青い空と海だけではない。この快適な時期には、気ままに歩く「散歩の旅」を勧めたい。沖縄は歩くほどに、発見と出会いがある場所だ。夏の強烈な日差しも落ち着くこの時期は歩きやすい。だから歩いてほしい。街を歩こう。それも表通りから外れ、脇道へ。ガイドブックに載る名所や人気店は少ないが、そこでは予想もしない発見や出来事が、旅人を待っている。「飛び安里の碑←」。那覇市の隣、南風原町の脇道で聞き慣れない「飛び安里」の案内板が目に留まった。矢印に従い、丘に続く石段を上る。1、2、3……実に200段以上!息を切らし丘の上に着くと「飛び安里初飛翔記念碑」は立っていた。飛翔? 説明文を読む。かつてこの地に住んだ「安里さん」が、琉球時代の18世紀に飛行機を考案し、空を飛んだーーライト兄弟よりも早く? まさか! 頭上に広がる青空。この空を本当に飛んだのだろうか。学校では習わない歴史の片鱗に触れ、得した気分。歩いた甲斐があった。「あーら、お久しぶり」本島の住宅街で、以前たまたま寄った「パーラー」。以来、近くに行くと必ず寄る。そのたびに店の奥さんが、明るく迎えてくれる。先客は生ビールを飲むオジさんと、小学3年くらいの少年4人。ビールに泡盛、沖縄そばにコーヒーとジュース、お菓子までそろうのが沖縄のパーラーだ。ランドセルを放り投げ、1個20円のチロルチョコで盛り上がる少年たちを横目に、僕はアイスコーヒー。「ウナギ食べる?」と奥さん。コーヒーと一緒に? でもいただきます。ここで「こーんにちはー」と地元の婦人がご来店、ウナギを食べる僕を見て、すかさず言う。「アラ、ウナギあるの?」奥さん「(ヤバい、もうないのよね)今日は蒸すわねー」婦人「ねえウナギあるの?」奥さん「雨が降りそうねー」そそくさとウナギをかきこむ僕の横でチョコを頬張り「最近どう?」「まあね」と少年たち。何が「まあね」だか。緩い空気に身を任せ、自分が旅人であることすら忘れていく。老若男女も地元もヨソ者もゴチャまぜの午後のパーラーで「ああ、沖縄だ」と感じずにいられない。那覇から遠く、観光客もいない小集落。ブラブラ歩き、小学校のそばを通りかかった。すると、「オジさーん、何やってるの?」窓から子どもたちが顔を出し、大声で叫びながら僕に手を振る。「アンタたち、授業中よ!」と背後から女先生も現れて「ゴメンなさいねえ」と言いながら、僕を見て苦笑い。ああ、沖縄に来た。やはり観光客が少ない、別の小集落。散歩の途中、日陰のベンチで休んでいると、地元らしきオジさんが来て隣に座った。そして手元のビニール袋をガサゴソとまさぐり、取り出したのは缶ビール。「飲む?」と言い僕に差し出す。「いいんですか?」と言うと、再び「ほれ」とオジさん。いただきます。プシュッと栓を抜き乾杯。「こんな何もない所に、なんで来たの?」と、オジさんは笑った。夜も歩こう。沖縄は夜行性の人が多いから、夜は居酒屋やバーの明かりが煌々と灯り大にぎわい。ホテルに閉じこもっていてはもったいない。那覇の外れ、闇夜にポツンと灯る「BAR」の看板。「いらっしゃいませ」眼鏡、ヒゲのマスター。ジャック・ダニエルをロックでもらう。アメリカ統治の影響で、沖縄のウイスキーの主流はバーボンかテネシー。沖縄の長老は泡盛より、バーボンを好む人が多いとも聞く。客は僕ひとり。マスターが氷を削る音がシャリッ、シャリッと静かに響く。店内の隅でレコードが回り、ジャズが流れているーー。沖縄に秋が来た。歩くほど話すほどに、素顔の魅力を感じてやまない、沖縄の秋が来た。沖縄の奥深さを味わうなら秋がいい。出かけよう、秋の沖縄へ。もうひとつの那覇の顔 迷宮を彷徨うような裏通りのマチグアーえびす通りに立地するから「恵比寿珈琲」。しかしビール派が集う店。小径が複雑に交差する迷路のような商店街へ進入県庁前から延びる約1.6kmの道路に沿って、レストランや土産物屋がびっしりと軒を連ねる那覇の国際通り。ここは沖縄を訪れる観光客誰もが足を踏み入れる超メジャーな観光地だ。時期や時間帯によっては、まっすぐ歩くことも困難なほど人があふれているため、旅慣れたリピーターの中には、敬遠する人も少なくない。だがそんな国際通りには、一歩裏へ踏み込むとまるで迷宮のように入り組んだ商店街も存在する。地元の人ですら自分の居場所がわからなくなることがある、そんなスージグワー(路地)のマチグワー(商店街)を訪ねてみた。国際通りの入口へは、那覇空港からモノレールで約13分の「県庁前駅」で下車。駅の南側すぐの通りが国際通りだ。県庁北口の交差点から国際通りをプラプラと東へ向かう。「兄さんによく合うかりゆしウエアあるよー」など、威勢のいい呼び込みの誘惑に負けずに10分ほど歩くと、市場本通りという商店街の入口に至る。そのすぐ先にはむつみ橋通りという商店街もある。どちらの道を選んでも、奥で無数の路地と結ばれ、巨大なマチグァーを構成している。市場本通りの入口付近には、お土産物屋から各種総菜を扱う店、衣料品店、鮮魚店などが並ぶ。観光客の姿も多く、明るい南国の雰囲気あふれる通りという感じが漂っている。そして多くの観光客がそれらの店を覗き込んでいる。しかし市場本通りをさらに奥へと進んでいくと、次第に人通りが少なくなっていく。やがて平和通りと交差し、いつの間にか名前は市場中央通りに変わる。さらに迷路のような小径がたくさん交わってくる。面白がってそれらの道に入っていくと、だんだんと方向感覚が失われていってしまう。平和通りと市場中央通りが交差している辺りには、かつて観光客にも人気だった第一牧志公設市場があった。現在は改築中のため、店は全てシャッターが下ろされ、廃墟のようになっている。当然、観光客の姿などあるはずがない。市場中央通りと並行するパラソル通りに入ってみると、シャッターを下ろしたままの店が増え、先ほどまでの明るい雰囲気はなくなった。その代わりに、東南アジア風の空気が漂っている。衣料品を扱う店が目につくが、商品を無造作に積み上げているかと思えば、公共の通路の手すりに引っ掛けるという荒技ディスプレイを見せてくれる。テーゲー(いい加減)なところが実にいい。どこの道に足を踏み入れても面白い光景ばかりに出くわすので、ついつい通りを右へ行ったり左に折れたりしてしまう。そうこうしているうちに足は疲れてくるし、喉も乾いてくる。ふと路地の先に目をやると、えびす通りの看板下にカウンターのカフェらしき店があるのが目に入った。そこは店名が「恵比寿珈琲」というのに、先客はみんなビールを呑んでいる。「コーヒーもありますけど、どうします?」と、店を切り盛りしていた青年。沖縄はまだまだ夏が続いていたので、明るい時間であったが、オリオンの生をいただくことにした。青年は沖縄のゆる~い時間が気に入り韓国から来沖。そのまま住み着いてしまったという。その彼に店名の由来を尋ねると「えびす通りにあるからっしょ!」と笑われた。ひと息ついたところで、さらに探索を続けた。再び市場中央通りに戻り、そこから薄暗い路地へと足を踏み入れた。すでに夜の雰囲気が漂う路地奥には「足立屋」という大衆串揚げ居酒屋が、早くも大勢の吞ん兵衛たちを引き寄せているではないか。「“千ベロ”いかがっすか。つまみ1品にビールやサワーが3杯呑めますよ。つまみは串カツ4本か、もつ煮込みのいずれか。味は保証しまっせ」なんだか大阪新世界界隈にでも迷い込んだ気分。店はけっこう混んで賑やかだったが、時間はまだおやつ時の3時。いいのか!?ディープな店が多い歓楽街は今も元気に営業①路地を歩いていると「金玉」という文字が目に飛び込んできた。どうやら占いの専門用語のようだが、なかなか見かけない看板だろう。②アーケードの商店街は筋ごとに名前が変わる。③那覇最大の買い物スポット、国際通りの裏手とは思えない鄙びた雰囲気がいい。④小さな路地ほど面白い店が見つかる。市場中央通りを核とする迷宮のような路地に隣接し、戦後に歓楽街として発展した所が桜坂通りだ。最盛期には数百もの飲食店が軒を連ね、夜な夜な怪しげなネオンに多くの人たちが吸い寄せられていたエリアだ。現在も当時の面影をわずかに残す店と、新たに開発されたホテルや店が混在し、不思議な匂いを醸し出している。この通りが開発されたのは1951年。現在の桜坂劇場と、西にあるアーケード街の平和通りまでの小高い丘を越える道路として造られた。坂の頂上付近に、桜坂劇場の前身である芝居小屋の珊瑚座が建築された。1952年にこの小屋が営業を開始し、坂に桜を植樹したことが、名前の由来だという。だが桜は、たった2年で伐採され、道路となってしまう。日中の桜坂通りは人通りが少なく、通りに面したカフェのテラス席には、地元のおじぃとおばぁがゆんたく(おしゃべり)に興じていた。そんな光景を楽しみつつ、ゆっくりと散策する。昼間からさらに呑むのは気が引けたので、沖縄の郷土玩具の琉球張子作家が営む「玩具ロードワークス」に入ってみた。こんな個性的な店と出会えるのも路地裏の面白さだろう。桜坂通りの東北側に続く路地が、一帯を米軍に接収されていた時代、沖縄随一の歓楽街であった竜宮通り社交街である。社交という言葉には、かつてはいろいろと深い意味があったようだ。今は150mほどの細い路地に、小さなスナックや飲食店がひしめいている。常連客ばかりが集いそうな、小さくディープな印象の店が多く、何となく敷居が高く感じられてしまう。しかし実際に訪れてみると、観光地の店よりも居心地が良く、案外値段も安いみたい。ウチナーンチュとの一期一会を期待するなら、こうした場所がいいかも。戦後復興期の風景を残す地元民に愛され続けた市場桜坂・竜宮通り界隈。国際通りの店は観光地価格なので、地元の人は足を向けないようだ。だが昔から変わらない風情を残す竜宮通り社交街は、地元の人で賑わう。最近ではわざわざ足を延ばす観光客も増えてきているという。そして戦後の復興期に誕生し、今もなおその当時の姿をとどめている栄町市場へと向かった。そこは国際通りから近いモノレールの「牧志駅」の次の「安里駅」前という一等地にありながら、日本に唯一残された歴史の生き証人といっても過言ではない、戦後のカオス感をまとっているのだ。市場内はご多分に漏れず入り組んだ迷路のような路地で構成されている。日中は地元産の野菜や精肉などの生鮮食品、それに手作りの総菜を扱う店が路地のあちらこちらで営業している。どの店からも、威勢のいいおばぁのかけ声と笑い声が聞こえてくる。そして店の前には買い物ついでにお店の人と話し込む客の姿があった。戦後復興期にできた建物が昔を感じさせるだけでなく、ここには人の温かさや優しさも残っているのだ。市場のほぼ中央にあり、買い物客や店の人たちの鼻孔をくすぐり、引き寄せてしまう憩いのスペースが「コーヒー ポトホト」だ。カウンターに2人座ると満席だが、その周囲で立ち飲みする人が後を絶たない。そこでおすすめのコーヒーの情報交換が始まるのも、人との距離が近い路地ならでは。ここは地元のコーヒー通だけでなく、県内のカフェが豆を求めにやって来るほど、その美味しさは評判だ。夕刻が近づいてくると、日中シャッターを閉じていた店が次々にシャッターを開いていく。そして赤提灯に火が灯ると、行列ができる餃子屋や古酒や琉球料理が味わえる居酒屋、さらにはエビだけしか置いていない店、貝料理専門店など、とにかく個性的な店が開店時間を迎える。こうして市場は、昼間と違った顔となった。何かが焼ける美味しそうな香りにお酒のグラスの中の氷の音が交ざり、身体の中はガス欠状態になってくる。そこで栄町市場のシメとして、居酒屋なのに沖縄そばがめっぽう旨いという「栄町ボトルネック」へ。酒や肴も言うことなしなのだが、肉や魚の缶詰の食べ比べもできるユニークな店だ。那覇には浮島通りやニューパラダイス通りといったスージグワーがまだたくさんある。一歩足を踏み入れて、ディープな“伝統の顔”を探ってみるのも旅の醍醐味だ。※こちらは男の隠れ家2019年11月号より一部抜粋しております

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  • 夏バテの体によく効く夏の冷泉 ぬる湯宿。Vol.2

    温泉のべストシーズンは冬ばかりではない。「冷泉&ぬる湯」の魅力を知れば夏の暑い時期でも温泉を十分楽しめる。ぬる湯に、いつもより長い時間浸かって夏の緑の景色を眺めるも良し。気合い一発冷泉に浸かるのも良し。風呂上がりの体に心地良い爽快な風が吹き抜ける。微温湯温泉旅館二階堂《福島県福島市/微温湯温泉》享保年間から滾々と湧き出す良泉ひんやりと心地良い湯に浸かる200年以上の歴史を誇る標高920mの温泉歴史を感じさせる木造の佇まいに、良泉の予感が高まる。車を降りてから「微温湯温泉旅館二階堂」へは、両脇にオオヤマザクラの木が並ぶ小径を行くことになる。そこで、ひと夏の命を惜しむかのようなおびただしいセミの声に包み込まれるだろう。見上げれば、磐梯朝日国立公園にある吾妻小富士の頂。宿はその東麓の標高920mの台地にあるのだ。ほどなく目の前に現れたのが、歴史を感じさせる宿である。微温湯温泉旅館二階堂は五棟からなる。一番奥が明治5年(1872)に建てられた茅葺きの建物で、手前が大正初期、さらに昭和の建物と続いている。そのうち三棟が国登録有形文化財の認定を受けている。温泉の存在が知られたのは享保年間(1716~1735)だという。九代目で現主人の二階堂哲朗さんによると「はっきりした歴史がわかっているのは享和3年(1803)。当家の初代が桜本村(現・福島市)から温泉の権利を譲り受けて、湯治客を受け入れたのが微温湯温泉のはじまりです。四代目の時に起きたのが戊辰戦争。戦後まもなく官軍はこの山の中腹まで巡視にきて、その時に宿は焼かれてしまいました」それから、時代が変わるごとに一棟一棟、建て増していったわけだが、その歴史の重みは宿の中を歩くと実感させられる。玄関を入ると右手に帳場と厨房があり、奥に食堂。2階の奥が客室で、外れの茅葺き屋根の建物は主に湯治客用に使われている。さらに細かく見れば、杉を渡した長い廊下は歩くたびにギシギシと鳴り、交換手を呼び出してかけた昔の電話器が柱に掛けられている。心落ち着く客室の天井が低いのは屋内で日本刀を振りまわさせぬ設計だからだ。引き戸のガラスは波打つ波紋を帯びていて、今では作ることのできない昔のガラスが大切に使われていた。それら全ての渋さが心に染みる。旅館は昔と変わらぬ佇まいを残しているが、温泉もまた昔のまま、滔々と湧き出ている。母屋から別棟へ続く長い廊下を渡っていくと、途中に湯治客用の炊事場があり、その突き当たりが男女別の浴室だ。大きな浴槽は源泉掛け流しのぬる湯で満たされ、ザアザアと音を立てて流れていた。その脇には温泉ではない沸かした上がり湯がある。つまり、秋口や春先はぬる湯の温泉だけでは寒いため、体を温めるのに沸かし湯が用意されているのである。壮快感を感じさせる温泉と心に染みるもてなし湯上がりには、やっぱりビールだろう。鬱蒼とした木立や吾妻小富士の頂を肴に、喉を潤す。その壮快感がたまらない。さて、二階堂さんが、31.8°Cからプラスマイナス0.2°Cほどと言い、日本ぬる湯番付で「東の横綱」とされている温泉に浸かってみた。確かにぬる湯ではあるものの、夏だけにその冷たさがとても快適に感じられる。窓からは木々の緑を眺めることができた。熱い温泉はせいぜい5分ぐらいしか入っていられないのだが、ここの湯には1時間以上、平気で浸かっていられた。読書でもしてみようかと思ったほどである。夏の木洩れ日を感じながら、冷泉に長い時間浸かる。次に入った時は読書も楽しんだのだった。湯船に浸かりながら水を飲んでいると、ふと宿までの道すがら見た光景が思い出された。いつしか対向車とすれ違えないほどの狭さの山道を登ってきたが、林の切れ間から見下ろす福島市内の風景はとても美しかった。もちろん、宿の周囲に人家はないのだが、高原の空気が爽やかに透き通っていて、その壮快感はこの温泉に通じるもののようだ。ただ、ぬるい温泉を温める宿も多い中、それをしないのはなぜなのだろう。二階堂さんによると、「来てくださった方に源泉をそのままに楽しんでほしいという思いがあります。また、鉄分が多いために、温めた温泉が冷めてしまった場合、再加熱すると真っ赤になってしまう。この湯の管理は難しいんですよ」と言った。含アルミニウム泉の泉質は結膜炎や白内障などの眼病に効くとされている。江戸時代から明治、大正、昭和にかけては、多くの眼病治療を目的とする湯治客で賑わったそうだ。そんな話を聞いていると、いわき市からよく通ってくるという60歳代の客が、「長いこと腰痛に苦しんでいましたが、ここの湯口から出る温泉を腰に当てる方法を繰り返していたら、痛みが軽くなりましてね」と言った。私はいつも疲れ目なので目を洗ってみたい。それでやり方を聞くと、「湯船内で温泉に顔をつけて何度も目をパチパチして洗うのです」と言う。しかし、温泉の成分のためだろう、最初はジリジリと染みたが、次第に収まって心地良くなっていく。これはいいと何度も洗ったのだった。宿はご夫婦とご主人のお母さんの3人で切り盛りしている。その女性お二人の肌がツヤツヤしていて、とてもお若く見えるのも、やはり温泉の効用だろうかと尋ねると、予想にたがわず、毎晩欠かさずこの湯に入るのだそうだ。左/夕食。岩魚の味噌焼き、レモンが添えられた相鴨の陶板焼き、ふきとクルミの和え物、れん根・鳥肉の煮物など。どれも美味しかったが、なかでも、わらびのお浸しは絶品。右/朝食。アジの干物の焼き物のほかに、山菜の小鉢など。夕朝食とも内容はほぼ変わらない。夕刻、食事は個室の食事処に用意してくれた。メイン料理は相鴨の陶板焼きで、岩魚の味噌焼きも、山菜料理もどれもが美味しかった。見た目は決して豪華ではないが、客人をもてなそうという作り手の温かい気持ちが直に伝わってくる。その心遣いも肴に日本酒がすいすい入ってしまった。だが、まだすることがある。外に出て、星を見てみようと思っていたのだ。すると降るような星空で、とても星が近くに感じられた。おそらく空気が澄み切っているからなのだろうが、この“澄み切る”という言葉に誘われて、また温泉に浸かった。後は心和む和室の客間へ戻るだけである。ひんやりと心地良い湯加減は、熟睡を保証してくれているかのようだった。ぬるゆおんせんりょかんにかいどう福島県福島市桜本字温湯11※こちらは男の隠れ家2019年9月号より一部抜粋しております

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  • ローカル線 海、山、川の旅。-海・JR五能線-

    夏、ローカル列車に乗ると遠い昔を思い出す。網と籠を手に虫を追って、草の匂いあふれる原っぱを走り回ったあの頃。スイカを頬張りながら花火を見ていた少年時代。一日がとても長く、夏休みは永遠に続くものだと思っていた。ローカル列車の向かい合わせボックスシート。目の前には海、山、川が行き交う車窓を見つめるあの頃の自分が座っていた。海:JR五能線秋田県・青森県/東能代駅~川部駅波打ち際の列車から海岸線と水平線を眺めるあきた白神駅~岩館駅間の第二小入川橋梁。高さは23.4m、長さ174m。海が見たい。美しい砂浜と波打ち際の白波。緩やかな曲線を描く海岸線と彼方に霞む水平線。どこまでも続く海の風景を眺めていたい。人間とは時折、無性に海を見たくなる生き物らしい。そんな時に真っ先に思い浮かぶのがJR五能線だ。秋田県から青森県へ。4時間以上をかけて、日本海沿いをひたすら走るローカル線である。始発駅は秋田県の「東能代駅」。朝7時23分発の列車通学の高校生で賑わっていた。しかし隣の「能代駅」、次の「向能代駅」で全ての学生が下車。2駅目で早くもひとりぼっちになってしまった。唖然としていると、発車間際に麦わら帽子をかぶったお婆さんがひとり乗り込んできた。やれやれと安堵したのも束の間、お婆さんも次の駅で降りてしまった。地元の人たちこそ少ないが、途中からは少しずつ観光客が乗り込んでくる。今や五能線は観光客が支えているといってよい。4人組の女性観光客が語る。「テレビで五能線を紹介しているので、観光客で混雑していると思ったんですが、朝早い時間はやはり空いているんですね」東能代駅からしばらくは内陸部を走り、車窓には田園地帯が続く。日本海に出合う本番までの助走区間のようで「海はまだか」と期待感が高まってくる。鯵ヶ沢を目指して荒々しい海岸段丘を進む日本海の絶景を車窓から眺める乗客たち。それは突然やってきた。「東八森駅」を出て、しばらく田園風景が続いていたが、左手の家々の向こうに海がちらちらと見えてきた。小さな丘陵の裾野を縫うように左にカーブしながら進むと、いきなり視界が開けて、左手に大きな日本海が現れたのである。夏の日差しを浴びて、凪ないだ海はきらりきらきら光っている。波打ち際の明るいコバルトブルーのような海水の色が沖合に行くにしたがって群青色へ、藍色へと変わっていく。夏の五能線は冬の荒れた海とは別の顔を持っていた。しばらく海岸線沿いを走った後、列車は海岸段丘を駆け上がる。五能線沿いには「八森駅」辺りから「鯵ケ沢駅」まで海岸段丘が続いている。列車が段丘の一番下を走る時には波打ち際ギリギリを通るため、車内から海の底までのぞき込める。段丘の上を走る時には、眼下に水が張られた美しい水田と遠くの日本海を俯瞰することができる。海との距離感が刻々と変わっていき、飽きることがない。「岩館駅」を過ぎたところで、女性車掌のアナウンスがあった。「これより速度を落としてまいります。日本海の荒々しい景色をお楽しみください」波が大小の岩々にぶつかっては白く小さな波しぶきを上げる、荒々しい風景が続いている。海沿いを走るローカル線は多いが、この荒涼とした景色は五能線ならではのもの。心にしかと刻みたくなる印象的な風景だ。「十二湖駅」に到着。観光客がぞろぞろと降りるので、気まぐれに下車してみた。駅前はバスも発着して賑やかだ。白神山地山麓に湖が点在する十二湖や日本キャニオンというU字谷大断崖などの観光地の拠点になっている。歩いて行くなら森山海岸だ。五能線の線路のすぐ近くに、日本海の荒波が造り上げた大小の奇岩がある。大昔に火山が噴火、マグマが冷えたことによりできた十二湖凝灰岩だ。この森山海岸の風景は車窓からも眺めることができる。五能線沿いの海岸では多彩な岩を見られるのも面白い。再び列車に乗って、漁港のある「陸奥岩崎駅」を過ぎると右にカーブして、日本海に突き出した小さな半島を海岸沿いに走る。海辺の露天風呂で夕暮れの絶景を堪能露天風呂は混浴と女性専用の2種。塩化物泉で鉄分を含んだ温泉は茶色く濁っている。殺菌効果や美肌効果があり、皮膚病によく効くといわれる。途中の「ウェスパ椿山駅」で下車した。本日の列車旅はここまで。どうしても見たい風景があった。露天風呂から見る、日本海に沈む夕陽だ。「黄金崎不老ふ死温泉」である。宿泊客のみが夕方以降の露天風呂に入浴できるので、今宵はここに宿泊することに決めていた。夕暮れ前に露天風呂へ。建物から屋外の通路を歩いていくと、岩がごろごろと続く海岸に、豪快な露天風呂があった。茶色く濁った湯にゆっくりと入ると、ざばー、ざばーと波の音だけが聞こえてくる。湯を嘗なめたらしょっぱかった。さて、肝心の夕陽はというと、残念ながら水平線の上が雲に覆われ隠れてしまった。しかし諦めかけたところで、徐々に雲が切れ始めた。薄く雲がかかってぼわっとした太陽が、今まさに日本海に沈まんとしている。日輪は海上を黄金色に染めて、こちらに向かって黄金の道をつくっている。初めて見る雄大な大自然に見とれているうちに、太陽はあっけなく海に沈んでいった。後には美しい夕焼けが残るだけ。静かに絶景の余韻に浸った。2日目。列車は高台から「深浦駅」へと下りて行く。深浦は北前船の風待ち湊として栄えた町だ。北前船は江戸時代に、大坂(阪)から日本海を通って蝦夷地まで通った「動く総合商社」。日本海交易の拠点だった深浦の町には京、大坂から様々な文化が流入した。北前船は明治時代半ばまで活躍したが、その後は鉄道や車に移行した。海運・陸運の栄枯盛衰は、深浦の歴史そのものだ。カモメが飛来する千畳敷海岸を散策する広戸駅~深浦駅間を走る列車。夏の五能線は青い空と海を堪能できる。深浦駅で発車を待っていると、急に車内が賑やかになった。旅行会社の旗を持ったガイドを先頭に、団体客が乗ってきたのだ。「ここからが五能線のハイライトですよ。日本海の絶景を車窓からじっくり堪能してくださいね」ガイドの言葉に、乗客が窓際の席へと散らばった。五能線には快速列車「リゾートしらかみ」があるが、最も景色の良い区間だけ各駅停車に乗るのも、なかなか賢い乗車方法だ。深浦駅を過ぎると、広戸、追良瀬、驫木、風合瀬、大戸瀬......。名を聞いただけで日本海の風景が浮かんでくるような、風情ある駅名が続く。海沿いを走る列車から見えるのは、雲ひとつない青い空と穏やかな日本海。誰もいない砂浜。夏の日本海の佇まいは爽やかでいながら、どこか陰りを帯びて、旅人へ語りかけてくる。列車は砂浜に沿って緩やかなカーブを描いて走る。点在している岩礁の岩がだんだん大きく広くなってきたら千畳敷海岸だ。千畳敷は寛政4年(1792)の地震で、緑色凝灰岩の海食台地が隆起した。車窓からも見えるが、できるなら下車して、カモメが飛び交う千畳敷の岩の上を歩いてみたい。千畳敷を過ぎると右に大きくカーブする。海の向こうに津軽半島の小泊付近の陸地が見えてくる。晴れた日には北海道もうっすらと見える。やがて「鯵ケ沢駅」だ。鯵ヶ沢湊は江戸時代、弘前藩の藩米を大坂へと積み出す御用港だった。漁港の近くにはイカ焼きの店が並んでいる。最近の名物は「ヒラメの漬け丼」だ。鯵ケ沢駅を出て右に大きくカーブすると、あっという間もなく海が見えなくなってしまった。海の残像が宿る目には、津軽平野の真ん中にそびえる岩木山が見えてくる。津軽富士の稜線が、すっきりと秀麗な姿に変わると、そろそろ五能線の旅も終わりである。※こちらは男の隠れ家2018年8月号より一部抜粋しております

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  • 京都の路地裏ひるごはん。Vol.2

    京都の雰囲気や味を堪能したいけれど夜の名店はなかなか暖簾をくぐれない。それならお昼ご飯時に訪ねてみよう。気軽に敷居をまたぐことができ、京都の味も佇まいも十分堪能できる。昼に京料理が愉しめる路地裏の名店をご紹介。屋形船を模したお座敷で愉しむ三百年の歴史を誇る「古都の味」いもぼう 平野家本店〈東山〉「いもぼう御膳」(2500円)はメインのいもぼうのほか、付出し、祇園どうふ、お吸い物、ご飯、香の物という組み合わせ。付出しはひと口胡麻豆腐であった。お昼ご飯では祇園豆腐の代わりにとろろのり巻きが付いている「月御膳」(2700円)や、両方とも付いている「雪御膳」(3000円)なども人気である。山と海の幸が鍋で出合い奇跡の旨味を醸し出した逸品八坂神社を抜け、円山公園や知恩院へと続く石畳の小径をたどると、知恩院南門手前に「いもぼう平野家本店」の看板が見えてくる。落ち着いた雰囲気の竹穂垣に囲まれた門を潜ると、左手に入り口がある。中に入ると左右に障子が続き、通路や部屋が途中で湾曲しているという、不思議な光景が目に飛び込んでくる。「いもぼう」という料理の歴史は遥か昔、徳川吉宗が将軍だった享保の頃(1716~36)まで遡る。粟田の青蓮院に仕えていた平野権太夫は、御用のかたわら御料菊園、蔬菜の栽培に携わっていた。ある年、青蓮院の宮が九州行脚の折に唐の芋を持ち帰ってきた。これを円山山麓に植えると、姿が海老に似た良質な芋が育ったので、海老芋と名付けた。「今のように流通が発達していない時代、海から離れた京では海産物は珍重されていました。もちろん生魚などではなく、カチカチに乾いた乾物の魚でした。だから御所にも献上されていた棒鱈を、柔らかく戻す工夫があれこれとなされていたのです。そこで権太夫は円山で育った海老芋と抱き合わせて炊き上げる、独特の調理法を編み出しました」と、その成り立ちを語ってくれた若女将の北村佳苗さん。すると海老芋が棒鱈を柔らかくし、棒鱈が海老芋の煮崩れを防いでくれた。両者はまさに奇跡のような相性の良さを見せたのだ。以来「いもぼう」は、山のものと海のものが出合い、一緒の鍋で美味しく炊き上がった、お目出たい縁結びの料理とされた。そのため誕生以来ずっと、ハレの日のご馳走として人気を博している。「ところで、通路や部屋が曲がっているのは?」と尋ねると「屋形船を模した形なのです」という答えが返ってきた。部屋から見える景色を、舟遊びに置き換えてしまうあたり、いかにも都人の粋を感じさせる。粋な部屋でいただいたのは、店自慢のお昼ご飯「いもぼう御膳」。女性の拳ほどもある大きな海老芋がごろりと入った「いもぼう」は、やはり存在感抜群。横にはしっかり鱈もいる。海老芋は中までしっかり鱈の味が染み込んでおり、口に含むとしっとりとした旨味が広がる。見た目のインパクトとは裏腹に、間違いなく繊細な京料理そのものだ。さいの目に刻まれた豆腐があんとよく絡み、五感をほっこりさせる「祇園どうふ」や、湯葉や卵焼きの入ったお吸い物なども、膳を華やかにしてくれる名脇役である。いもぼう ひらのけほんてん京都市東山区円山公園内知恩院南門前黄金の出汁が奏でる見事な味名店で愉しむ和食の真髄直心房 さいき〈祇園〉右2点/「強肴(しいざかな)」は長芋、ズッキーニ、たらの芽、それにネギ味噌と辛子と共に牛肉の味噌漬けが盛られていた。奥は山芋そうめんに鯛の白子、いわ茸などを盛り合わせた、口当たりが爽やかな一品。左2点/すっぽん鍋は耐熱性に優れ余熱でおこげができる。ご飯の旨さを再認識させられる。食材の特性を見極めて一番美味しい状態で提供昭和7年(1932)に創業した料亭「さいき家」の三代目、才木充さんは「実は料理人にはなりたくなかった」と語る。子供の頃は店と自宅が同じ場所にあったから、父は仕事着のまま家に帰ってきた。それを支える母の苦労を見ているうちに、そんな思いに捉とらわれたのだという。しかし全寮制の高校に進学した頃、考えに変化が生じる。三代目としての道を歩む決意を固め、他の店で修業することを申し出ると、父親からは大学進学を勧められた。大学時代は様々な飲食店でアルバイトをしたおかげで、色々な人と接し、お客様に喜んでもらうにはどうするのか、という姿勢を身に付けた。大学卒業後は関西一円の和食、割烹、ホテルなどで経験を重ねた。なかでも日本料理の第一線で活躍していた村上一氏の下で修業できたのは、何よりの糧になったという。そして29歳の時、実家に戻っている。だが大箱料亭だった「さいき家」は、冠婚葬祭や催事の仕出しなどがメインだった。そのスタイルに違和感を覚えていたタイミングで、建物の老朽化などもあり、店をリニューアルすることになった。そこで平成21年(2009)、店を東山の高台寺にほど近い、静かな小径の奥に移転し、店名も「直心房さいき」とした。平成23年(2011)からは7年連続でミシュラン一つ星を獲得。「全ての食材にこだわるのはもちろん、それぞれの食材が持つ旨味を最大限に引き出すように、下ごしらえや温度などに気を配り料理を仕上げす。なかでも日本料理の骨格である出汁にはこだわっています」利尻昆布と鮪節を贅沢に使用し、毎朝5時から4時間も火にかけ仕上げている。黄金色に輝く美しい出汁は、そのまま飲めば濃密な旨味が口いっぱいに広がる。それでいて濁りは一切感じない極上のものだ。魚は本来の美味しさを味わえるように、和紙で包み軽く塩をする「紙塩」を施す。それにより魚の生臭さが消える。お造りは一番美味しい瞬間を逃さず提供してくれるのだ。野菜は種類ごとに違う契約農家から直接仕入れている。自ら畑に出向いて状態を目で確かめ、その日使う分量だけを分けてもらうので、鮮度は抜群で味も濃い。もう一品、必ず供されるのは牛肉の味噌漬けだ。これはほのかな八丁味噌の香りが、牛肉の甘みをより増してくれる逸品。そしてお昼ご飯でも必ず出される人気メニューが、島根県の棚田で栽培された「仁多米」である。それをすっぽん鍋用の土鍋を使って、ひとつずつ炊き上げている。才木さんが「ご飯だけ食べたいとおっしゃる常連さんも多いです」と話してくれた通り、炊きたてのご飯は甘みが強く、おかずなどは一切不要といっても過言ではない。季節によって、様々な具材を使った炊き込みご飯も提供してくれる。火を止めしばらく置いておくと、鍋の余熱でおこげができ、それがまた最高に美味なのである。じきしんぼう さいき京都市東山区八坂鳥居前下ル上弁天町443-1東山の喧騒とは無縁の静かな空間で茶粥を食す高台寺 松葉亭〈東山〉右/料理の説明をしてくれた女将の畦地真澄さん。店は家族だけで切り盛りしており、おもてなしの心を旅館時代から引き継いでいる。左上/湯豆腐やだし巻き、自家製のつくだ煮などが付く茶粥セット(2000円)。左下/発芽玄米の番茶で炊いた香り豊かな茶粥。香ばしさが口中に広がる。さらりとした口当たりと番茶の香りが引き立つ茶粥青葉が累々と連なる東山の山稜。その山麓には清水寺、高台寺、知恩院をはじめ名だたる古刹が南北に数多く点在し、京都きっての観光エリアとして国内外に広く知られている。「松葉亭」は店名にも冠してあるように、その「高台寺」の近くに暖簾を掲げる料理処である。高台寺は豊臣秀吉の正室・北政所ねね様が、秀吉の冥福を祈るために建立した寺院で、寺の前の散策路は“ねねの道”と呼ばれて親しまれている。近年は産寧坂、二寧坂から続くこの界隈は“喧騒”とも例えたくなるほどの賑わいを見せているが、「松葉亭」はその人波から少し離れた路地に町家の情緒をたたえて静かに佇んでいる。格子戸の入り口から暖簾をくぐり、細長い通路を抜けて中庭へ。明るく開けたそこには苔の色も鮮やかな京都らしい小さな坪庭が設えられ、客はそのまま玄関へと導かれる。「おこしやす」のはんなりとした出迎えと共に通されるのは、床の間のある数寄屋造りの落ち着いた座敷。店というより町家のお宅にお邪魔したような空間に心が和む。「創業は大正元年(1912)ですが、昭和30年(1955)には旅館業も始め、8年前までは“片泊まり”の宿としても営業しておりました。夜は懐石料理、お昼は茶粥や湯豆腐、ひょうたん弁当などをご提供しています」と話す女将の畦地真澄さん。ランチの後の喫茶タイムには、あんみつやぜんざいなどの甘味も愉しめる。わずか10席のみだが、客一人ひとりに目が行き届き、おもてなしするにはちょうどいい規模の席数だという。お昼にいただけるこの店の名物はなんといっても茶粥セット。番茶で炊いた茶粥、だし巻き、湯豆腐、生湯葉の田楽味噌、そして自家製のちりめん山椒、湯葉のつくだに、しいたけ昆布などが添えられる優しい味わいだ。番茶は発芽玄米の宇治茶を使用。生米からことこと炊き上げた茶粥は、香ばしい風味と、胃に染み入るさらりとした口当たり。さらに山椒の利いたちりめんを載せると、また違う味わいを愉しめる。実に美味だ。また、湯豆腐は三条白川にある山崎豆腐店の豆腐を使っている。「毎朝、お豆腐屋さんまで歩いて買いに行ってます。運動にもなるし、私の日課なんでよ」と笑顔を見せる畦地さん。こちらも豆の味が濃い滑らかな豆腐が舌を愉しませてくれる。一方で、予約制(2名以上)の夜のコース料理は本格的な懐石料理。八寸から始まり、お造りや焼き物などが彩りよく供されるが、茶粥をしみじみ味わううち、次はぜひこちらも味わってみたいと思わせてくれた。奈良や京都宇治の朝ご飯としても知られる茶粥だが、京都で本格的に茶粥が食べられる店はそう多くはない。隠れ家的な雰囲気といい、茶粥といい、ちょっと秘密にしておきたくなる、でも、人に教えたくなるそんな貴重な一軒である。こうだいじ まつばてい京都市東山区金園町407※こちらは男の隠れ家2019年6月号より一部抜粋しております

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  • River Fishing CAMP -やってみません?ソロキャンプ-

    トラウトと戯れる緑深き渓川音を聴きながら焚き火を楽しむ。渓流釣りとキャンプの相性はとてもいい。美しい渓流には総じて素晴らしいキャンプフィールドがあり、釣り人は焚き火を前に今日の釣果を想う。歩き疲れた体を癒す食と酒もまた、旨い。深い山に分け入り渓を歩く自然を存分に味わう時間山林が広がる埼玉県飯能市の名栗地区。西川材という良質な杉の産地で自然豊かだ。都心からも2時間弱で行けるため、釣りをはじめ、アウトドアアクティビティの拠点にするアウトドアマンも多い。渓流釣り師の朝は早いものと決まっている。早朝4時半、雨上がりの森にはまだ濃い霧がかかっていて、山々の全貌は見渡せない。規則正しく並んだ杉や檜の針葉樹の山に、山鳩の低い鳴き声だけが響いている。目の前を流れる美しい渓流。数日降り続いた雨のおかげで水量が増えて適度な笹濁り、まさにベストコンディションだ。素晴らしい渓流魚を1尾、なんとか釣り上げたい。早々にウェーダー(胴長)を着て愛用のフィッシングベストを羽織り、ウェーディングシューズを履いた。3.6mのテンカラロッドを1本持ち、ワレットの中には替えのテンカラ毛針を多数仕込む。最小限の装備で渓流を歩くこのテンカラ釣り、実は日本の伝統的な渓流釣り手法であり、近年は欧米でも人気が高まっているという。餌釣りのほか、ルアーやフライなど様々な手法があるが、今日はテンカラでトラウト(ニジマス、イワナ、ヤマメなど)を狙っていく。小さなポイントも見逃さず毛針を流す。しかし見た目以上に水量が多く、遡行すらままならない。日没に気をつけながら慎重に遡り、深場では沈む毛針をチョイスしてキャストを繰り返した。リリースサイズのヤマメが毛針を追うのが見えるが、なかなかヒットせず。しかし渓流釣りとはこんなものだ。釣れるに越したことはないが、釣れなくても川を歩くだけで気持ちがいい。いや、そんな無理やりの納得をもう何度したことか。それでも渓流が解禁すると、私はひとり渓に立っているのだ渓流釣りとソロキャンプそれはワンセットなのだテンカラロッドを振る。狭い渓流ゆえ、枝葉も多く、ロッドのテイクバックがとても難しい......。渓流釣りに出かける日、その夜もし泊まれる時間があるならば、私はその渓流近くのフィールドでキャンプをしようと決めている。今日も渓流からほど近い場所にある「ケニーズ・ファミリー・ビレッジ」(埼玉県・飯能市)に1泊お世話になることにした。人気のキャンプ場だとは聞いていたが、なるほど、それも頷ける。野宿キャンパー寄りの私にはもったいないほど整ったフィールド、清潔で安全な設備、そしてなによりスタッフの接客が素晴らしい。ファミリーと名が付くキャンプ場ではあるが、聞けばソロキャンパーも意外に多いらしい。「平日、ぶらっとお見えになる熟年男性のソロキャンパーさんもいらっしゃいますよ」。まさに私がそれだろう。川音が聴けるサイトがいいなと思っていたのでその旨を伝えると、河原サイト(7〜8月は日帰りの利用のみ可)を案内してくれた。チェックインを済ませて薪を2束(箱)購入し、早速サイトへと向かう。そして設営の前、まずはお決まりの儀式から。今日は深夜出発のため、昨夜我慢していたビールが疲れた体にジワーッと染み入っていく。この一杯があるから釣りとキャンプはやめられない。いや、私はもうこの一杯のために釣りをしているのかもしれないな。渓流釣りをする人ならきっと共感していただけるだろう。ソロキャンプなので装備も最小限のギアしか持参していない。ゆえにサイトもコンパクト、全体的にミニマムだ。今日はモンベルのムーンライト1型でインナーテントを使わず、グランドシートとフライシートを直結してテント代わりのシェルターを作った。焚き火に強いコットンTCのタープを張ってヘリノックスのテーブル&チェア、焚き火台と簡易的なトライポッドを配置したら完成。ミニマムとはいえ、快適さや自分の嗜好には贅沢でいたい。だからフィールド選びも焚き火ができる場所であることが大前提。何かをしなくてはいけないという決まりはないが、美味しい料理と酒があり、焚き火キャンプを楽しむというのが小さなこだわりなのである。イワナのホイル焼き、夏野菜のラタトゥイユ、チキンの白ワイン煮などを自家製レモンサワーを飲みながらのんびり下ごしらえしていく。さっきまでBBQをしていた若者が会釈をして帰って行った。河原には私ひとり。カジカガエルが鳴く渓を目の前に、静かで優しい夏の夕暮れがやってきた焚き火と美味しい料理と酒 ソロでしか味わえない贅沢料理を作り終えると、後は食べること、飲むこと、焚き火をいじることしかしない。いつ寝ても誰にも怒られるわけではないが、酒を飲みつつ焚き火の前でだらだらしてしまう人も多いだろう。眠くなってきたらヘッドライトと文庫本を持ってテントイン。が、3ページも読まずに寝てしまうのも、いつものこと。夜の帳が下りる頃、小さなメッシュランタンに火を灯した。サイト全体が明るくなるほどの照度はないが、テーブルランタンとしては十分な明るさ。雰囲気も悪くないのでもう長年愛用している。そして下ごしらえしておいた料理各種を仕込むため、焚き火に薪をくべて火力を上げていく。お気に入りの8インチダッチオーブンでチキンの両面をじっくり焼いたら、安い白ワインをひたひたに注いでコンソメと粉チーズを大量に投入する。このままトライポッドに引っ掛けてアルコール分が飛ぶまでかまわず放っておく。さらに、シングルバーナーの上にヨコザワテッパンを載せ、イワナの腹にマイタケと大葉を入れて包んだホイル焼きを蒸し焼きにした。とにかくこのヨコザワテッパンが優秀だ。ソロキャンプ(見た目は小さいが4人くらいまでなら余裕で使える)にはもってこいの万能鉄板で、私はどこに行くにもキャンプギアの中に忍ばせておいて愛用している。ここ数年、この〝ちまちま〞感をたまらなく愛しているのである。さらに小さなスキレットでバター味の焼き枝豆も作った。これをつまみにしてレモンサワーを飲むのが今のお気に入り。ラタトゥイユは焚き火が勝手に作ってくれるし、ここからは何もしない〝ひとり飲み時間〞の始まりだ。ひとりで釣りをしたりキャンプすることは寂しくないかとよく聞かれるのだが、話相手がいないという点だけでいえば寂しさがないわけではない。ただ、真剣に渓流釣りを楽しんだ後のソロキャンプでは、その余韻にひとりどっぷり浸るのがきっと私は好きなんだな。仲間たちとワイワイと楽しむ賑やかなキャンプもいいけど、釣りで疲れた日は誰にも気を遣わない自分勝手なソロキャンプがやはり一番いいと思っている。焚き火の火力を少しだけ落とし、ダッチオーブンの蓋をずらす。白ワインのアルコール分はもうほぼ飛んで、濃い目のスープの中でチキンがグツグツと煮えている。夏野菜がたっぷり入ったラタトゥイユとチキンを味わいながら、今度は山桜のククサでアイリッシュウイスキーをちびちび飲んだ。こんなソロキャンプをもう何年やってきただろう。栃木の山奥で焼いた地鶏は最高だったな。郡上の雨の釣りキャンプ、鮎の塩焼きと焼酎が美味しかった。伊那谷ではマトンロースをたらふく食べて日本酒をしこたまを飲んだっけ。新しくくべた太めの薪がパチンと爆ぜ、火の粉が勢い良く舞った。気持ちの良い酔いに包まれて、私は楽しかったソロキャンプの場面を思い出していたケニーズ・ファミリー・ビレッジ/オートキャンプ場都心からアクセスも良く、管理も行き届いた人気の高規格キャンプ場。キャンプ場の名にファミリーと付くが、ソロキャンパーにも人気があり、特にオフシーズンの河原サイトはお勧めだ。 埼玉県飯能市上名栗3196 アクセス/圏央道「青梅IC」より約30分 HP/www.kfv.co.jp 【商品詳細】商品名:冒険用品 ヨコザワテッパン ポケット(ヨコザワテッパン ポケットサイズ付き)価格:2,500円(税込) サイズ:縦25.7cm×横18.2cm×高さ0.14cm商品の詳細はこちら※こちらは男の隠れ家2019年10月号より一部抜粋しております

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  • 大人の夏旅、北海道。【江差・函館・松前編】

    北海道の中でも最も本州に近く、海に開かれた江差・函館・松前エリア。幕末から明治の歴史の面影を色濃く残し、国際貿易港として栄えた函館をはじめ道南エリアの北海道遺産を巡る旅へ。SPOT1 五稜郭と箱館戦争の遺構維新へ向け最後の戦いが繰り広げられた地五稜郭は幕末になり江戸幕府によって築かれた、火砲による攻撃に強い星型をした西洋式の要塞である。函館周辺の随所に残された国内最後の内戦の傷跡広大な北海道の中で本州に最も近い道南地域は、函館や松前といった町に代表されるように、歴史や文化が色濃く残されている。そんな道南地域にある北海道遺産には、様々な戦争の爪痕や貿易によって他国からもたらされた文化など、海に向かって開かれた土地ならではの特色が見られる。訪れてみればどこも、それぞれの時代の生活を肌で感じることができる遺産ばかりなのである。北海道の歴史を語るうえで欠かせないのが、明治元年(1868)10月から始まった箱館戦争だ。榎本武揚率いる旧幕府脱走軍艦隊が森町鷲ノ木に上陸し、箱館府があった五稜郭へ進軍。函館を基点にドライブを楽しむなら、まずは五稜郭を目指そう。そのルート上には褐色の山肌を天に突き出す駒ヶ岳と、周囲の景色を鏡のような湖面に写す大沼や小沼が織りなす素晴らしい景観が待っている。特に渡り鳥が羽根を休めるポイントである大沼は、時代を超えて人々の心を捉えて離さない。それは戦いに臨む兵士たちの目には、どのように映ったのかが気になってしまった。五稜郭に無血入城を果たした榎本らは、箱館政権樹立を宣言。しかし明治新政府は明治2年(1869)4月、乙部の海岸に軍を上陸させ反撃を開始。5月には箱館が戦いの舞台となる。「今年は箱館戦争終結から150周年の節目です。そのため市街随所に残る激戦地には順次、新たな案内板を設置している最中です」と、五稜郭タワー企画室長の木村朋希さん。五稜郭タワーは展望台に昇れば、特徴的な星型の稜堡式の城郭を一望することができる。それだけで満足するのではなく、市街地から港、山の方面へも目を向け、激戦地跡にも目を移す。町の景色を見渡すことで、函館山を中心に、函館が海へと突き出た両側に海が迫る独特の地形を持つことも再認識できるはずだ。戦いは今の函館市街だけでなく、江差や松前も含む道南一帯に及んでいるので、激戦の足跡をたどってみるもの面白い。ただし土方歳三が奮戦した二股口古戦場は、樹木に覆われた山深い地なので、クマとの遭遇に要注意だ。SPOT2 内浦湾沿岸の縄文文化遺跡群全国的にも珍しい「水場の祭祀場」を確認北黄金貝塚では、ひとつの集落に30人程度が暮らしていた。竪穴式住居には7~8人が生活していたとされている。全国的にもあまり例がない貴重な遺跡を間近で見る函館を出て車を内浦湾沿いに進める。室蘭市から函館市までの内浦湾(噴火湾)を囲むエリアからは、縄文時代から近世までの遺跡が数多く発見されている。なかでも縄文時代の早期(7000年前)から中期(6000~4000年前)のものとされる伊達市の「北黄金貝塚」では、大変貴重で興味深い遺跡が発見されている。「縄文文化は”自然と共生”したものと思われがちですが、意外に大量のウニ、カキやホタテなどの採取も行っています。それでも自然環境が保たれたのは、貝塚を全ての生き物の墓地として捉え、そこに人間も埋葬することで、自分たちも自然の一部だということを忘れずにいる。だから必要以上の獲物を取らないという考えが生じ、極端な自然破壊を防いだのだと考えられます」伊達市噴火湾文化研究所の永谷幸人さんは、貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、縄文人にとって神聖な場所であったと語る。そしてそんな貝塚の断面を見ると、様々な動物や魚介類の骨や殻などが交互に積み重なっていた。小高い斜面上にある貝塚からは、目の前に内浦湾が広がり、かすかに潮の香が鼻孔をくすぐる。弓なりに続く陸地は緑に覆われ、今でも豊かな自然に恵まれていることが実感できる素晴らしい地だ。さらに永谷さんは全国的にほとんど例を見ない「水場の祭祀場」にも案内してくれた。遺跡内には縄文時代から変わらずに湧き出ている水場がある。その周囲からは、壊された石の道具がこれまで1200点以上も発見されている。「役目を終えた道具は、壊すことで完全にあの世へ送ったことになったのではないか。それが水が生まれる神聖な場所に納めることで、道具への感謝と再生を祈っていたのだろうと考えられているのです」北黄金貝塚は「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産への登録を目指しており、これからますます注目されるだろう。SPOT3 函館西部地区の街並み明治の面影を色濃く残す通りと建築物末広町電停と大町電停間を走る函館市電800形電車。背後に見えるグリーンの建物は大正2年(1913)築の相馬株式会社社屋。瀟洒な洋館とレトロな路面電車が一幅の絵画にそして、函館へ再び戻って市内へ。安政6年(1859)、日米修好通商条約に伴い箱館港は横浜港、長崎港と共に日本国内初の国際貿易港として開港された。この町は古くから北海道への玄関口であったが、幕末にはいち早く西欧文明を迎え入れる窓口となったのである。現在の函館市街地は内陸部へと広がっているが、もともとの町は函館山麓の、西部旧市街と呼ばれているエリアであった。旧市街には函館山に向かって何本も南北の道がある。その中に「基坂(もといざか)」と名付けられた、ひときわ広い坂道が存在する。坂の上から見下ろすと、まずは海と船が織りなす絵画のような美観に目を奪われる。箱館が貿易港として開港すると、基坂の下に運上所(後の税関)、坂の上には奉行所が置かれた。その名の通り、この坂は町の中心だったのだ。奉行所の跡地には明治43年(1910)9月20日、旧函館区公会堂が開堂する。現在はこの瀟洒な洋館を中心に、一帯は元町公園として整備されている。さらに公園周辺には、和洋折衷の洒落たショップや住宅が建ち並び、格好の散策スポットとなっている。この日は平日だったが、大勢の観光客の姿があり、活気にあふれていた。また函館ハリストス正教会、カトリック元町教会、函館聖ヨハネ教会、真言大谷派東本願寺函館別院という、異なる宗教が肩を並べて建つ、不思議な光景にも遭遇する。これも国際貿易港を持つ、開放的な空気に満ちた函館らしい。坂の上から海側を見下ろすと、港を借景にして走り過ぎる路面電車の姿が見られる。北海道で路面電車が走っている町は函館と札幌だけだ。函館市電は明治30年(1897)12月に馬車鉄道として産声を上げた。そして大正2年(1913)6月には電車化。それは東京以北で初の、路面電車誕生の瞬間であった。函館に遅れること5年、札幌の路面電車は大正7年(1918)に運行を開始。いずれも「まちの顔」となり、現在も両市民の足として活躍している。特に函館市電は古い車両も多く、それが明治期の佇まいを残す街並みを背景に走る姿が、見る者の心に郷愁を抱かせる。車を使った旅であっても、少しの間は駐車場に預け、電車旅を味わってみるのも悪くない。運が良ければ復元されたレトロ車両「箱館ハイカラ號」に遭遇できるだろう。SPOT4 函館山と砲台跡明治後期に要塞化され津軽海峡を防備した実戦を経験することなく、大砲が撤去された砲台跡。軍事施設が生み出した思わぬ副産物に感謝函館という町の特徴を成すのが、海に突き出した標高334mの函館山だ。この山頂から眺める夜景は、日本に関する旅行ガイドである『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で、三つ星として掲載されている。夜景の時間ではなくても山頂から函館市街を一望しようと、大勢の観光客が山頂展望台に集まっていた。だが函館山には、まるで観光客には気づかれたくないかのように、うっそうと茂った木々の中に軍事施設が隠れている。これは明治31年(1898)から4年の歳月を費やし築かれた函館要塞跡で、当時、戦争状態に陥ることが予測されたロシアの艦隊から、造船所が置かれていた函館港と、津軽海峡を守備するために築かれたものだ。だが要塞は一度も実戦を経験することなく、昭和20年(1945)の太平洋戦争終戦と共に砲台や台座などは撤去。コンクリート土台や煉瓦の壁だけが残った。と共に軍事機密を守るために立ち入り禁止だったことで、手つかずの自然も残された。要塞周辺は約600種の植物、約150種の野鳥と遭遇できる。途中の駐車場からはアップダウンも少なく、山道の四方に海が見える景色も飽きないので、ドライブでなえた足には、格好のハイキングコースなのだ。SPOT5 上ノ国の中世の館和人とアイヌの混住説を裏付ける墳墓発見勝山館を築いたのは、松前藩の祖とされる武田信広と伝えられている。夷地のユートピアで和人とアイヌ民族が共存函館から約1時間30分。見渡す限り緑のグラデーションがまぶしい樹木に覆われた山中を抜ける道を走り続ける。そしてやってきた上ノ国は、日本海に面した小さな町であった。わずかな平地の周囲には低山が折り重なる。そのひとつ、標高159mの夷王山からは、1470年頃に築城された山城「勝山館」跡が発見された。弓なりの海岸線を一望する城跡からは、200戸近い和人とアイヌ民族が暮らしてきた痕跡があった。「館の背後から見つかった約650基の墳墓からは、和人の墓の間にアイヌ民族の墓が確認されています。それまで言われてきた和人対アイヌ民族という対立図式は、ここでは当てはまらないのです」上ノ国町教育委員会学芸員の塚田直哉さんの話を伺いながら素晴らしい景観を眺めていると、この城が理想郷に思えてきた。SPOT6 福山(松前)城と寺町最後の日本式城郭と道内唯一の近世的寺町奥は外観が復元された松前城天守と火災を免れた本丸御門。こちらは国の重要文化財。開拓以前の姿を伝える北海道で唯一の和式城郭最後に、道内唯一の日本式城郭が残る松前へ。福山城が竣工したのは幕末の安政元年(1854)。そんな時期に城が築かれた理由は、ロシアやアメリカなどの船舶が、日本海に出没するようになったことから。幕府は北方警備を目的に嘉永2年(1849)、松前崇廣に福山館の改築を命じたのだ。その結果、完成した城は最後期のもので、かつ北海道内唯一の日本式城郭となった。領民は親しみを込めて松前城と呼んだ。城の北側には、これも道内で唯一の近世的な寺町が残る。現在は江戸時代の本堂や庫裏を残す龍雲院をはじめ5つの寺院と歴代松前藩主の墓所が、木立に囲まれた静かな一角に集まっている。城跡から寺町界隈を散策していると、まるで信州あたりの城下町を散策している錯覚に陥る。古木に囲まれた参道からは、荘厳な空気と歴史の重さが感じられた。こうした気持ちを抱かせてくれるのも、北海道の懐の深さであろう。「箱館戦争や太平洋戦争を経ても、無事だった天守は、残念ながら昭和24年(1949)、城跡の麓にある役場で起きた火災で類焼してしまいました。」(松前町教育委員会主査・佐藤雄生さん)それでも、今も美しい日本の風景が残されている松前町。開拓使以前の北海道の姿を知りたければ、ぜひ松前町は訪ねてほしい。※こちらは男の隠れ家2019年8月号より一部抜粋しております

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  • 国内最大級の水槽で育つ天然物を超える極上あわび

    魚介類の宝庫である三陸は養殖でも知られた地域あわびは夜行性なので、日中は太陽光を遮る板の裏側に集まっている。あわびは意外に動きが俊敏。板を水槽から引き揚げると、すぐに水の中に入ろうとする。三陸海岸の魅力は、訪れた人の目を楽しませてくれる素晴らしい景観美の連続と、世界有数の漁場で美味しい魚介の宝庫だということだ。岩手県宮古市よりも南側は、岬と入江が入り組んだ複雑な地形を成すリアス海岸が続き、天然の良港として活用されてきた。そんな三陸海岸の沖合いには太平洋プレートが沈み込んでいて、そのまま日本海溝まで到達している。この海は北東大西洋海域、北西大西洋海域と並んで世界有数の漁場のひとつとされている。優れた漁場であるもうひとつの要因が、栄養分をたっぷりと含み、北から流れて来る冷たい親潮が、南から流れて来る暖かい黒潮と三陸沖でぶつかることだ。栄養豊富な親潮は黒潮に温められ、植物プランクトンを爆発的に生む。そしてもうひとつ忘れてはならないのが、栄養をたっぷりと含んだ海を利用しての養殖。三陸では様々な海産物の養殖が行われているが、ここで注目したいのが国内で唯一、あわびを卵から食用サイズまで育てる「元正榮北日本水産」の陸上養殖法なのだ。驚くほど柔らかな食感と旨味が満喫できる養殖あわびあわびは5mm刻みのサイズごとに水槽を分けている。そうすることで、成長が早く力の強い個体だけが優先的に育ってしまうのを防げる。緑に覆われた岬を越えると、蒼く輝く海が陸地の奥深くまで入り込んでいる。典型的なリアス海岸が続く大船渡市三陸町。綾里漁港へと続く県道9号線を走っていくと、まるで小型タンカーのようなスタイルをした水槽が、いくつも陸上に並んでいる光景が目に入る。これは昭和 61年(1986)に創業した「元正榮北日本水産株式会社」が手がけている、あわびの陸上養殖プール。そして、ここで育てられているのは蝦夷あわび。ほとんどのあわび養殖は、稚貝から食用サイズまで育てるが、ここではその前段階、つまり親となるあわびの交配から産卵、孵化、そして生育するまで一貫して手がけている。これは国内では唯一、北日本水産だけが有する技術だという。「あわびを育てるために使っているのは、地下から汲み上げている海水です。海の水をそのまま使うと、餌以外の海藻や砂が混じっていて、あわびはそれも食べてしまいます。地下から汲み上げる海水は、何層もの地層によって自然にろ過されているので、不純物がほとんどありません。それをさらにろ過して24時間365日、温泉のように掛け流しで使っているのです。こうすることで、あわびが健康に生育できるわけです」そう話してくれたのは、取締役営業部長の古川翔太さん。創業者で会長の勝弘さんの孫。さらに「うちのあわびは、ワカメや昆布、限定した魚粉などを主成分とする、特別な人工飼料だけを与えて育てています。原料にこだわった飼料は、人が食べても何ら問題ありません。ひとつどうですか?」と、人工飼料を取り出した。タブレットのような飼料をひとつ口に入れてみると、香ばしい海藻の風味が鼻腔をくすぐる。クセになりそうな旨味があるうえ、健康にも良さそうだ。同じサイズの個体を集めれば、成長のスピードも揃えることができる。どんな大きさの発注があっても困らないのだ。古川さんは様々なサイズを見せてくれた。栄養たっぷりの食事を与えられ、のびのびと育てられるあわび。もちろん水や餌に成長ホルモンや抗生剤、その他一切の添加物は使われていない。それだけに、多くの手間を要しているのも確か。このような環境で育ったあわびは、天然物と比べ身がとても柔らかいのが特徴。これは栄養が行き渡っているうえ、天敵や潮流などから身を守る必要がなく、過度な運動を行なっていないから。しかも天然物よりも成長が早く、年間を通じて安定した供給量を確保することができる。さらにサイズまで揃えられるため、受注生産も可能になったという。あわびの貝殻は、食生活によって色が変わる。食べている海藻がワカメなどの場合は緑色に、海苔などならば赤色になる。北日本水産のあわびは原料にこだわった人工飼料なので美しい緑色をしている。これが「三陸翡翠あわび」という名の由来。老若男女、誰もが安心して食べられる極上のあわび、ぜひ試していただきたい。厳選!肉厚で柔らかい三陸翡翠あわび地中でろ過された海水をさらにろ過。清潔な環境を保つ水槽と、栄養満点の飼料で育てられた三陸翡翠あわび。育てる過程において、成長ホルモンや抗生剤を一切使用していない、安心の完全無添加生産なのだ。三陸翡翠あわび -お手軽ファミリーセット-誰でも簡単に美味しい料理が楽しめる逸品商品名:三陸翡翠あわび -お手軽ファミリーセット-価格:7,000円(税込)商品の詳細はこちら生鮮あわびセットあわび本来の旨味を凝縮 キモまでいただける商品名:生鮮あわびセット価格:4,650円(税込)商品の詳細はこちら好評発売中!牡蠣&ムール貝牡蠣ぽんレンジで簡単に調理完了 お酒のお供にも最適商品名:牡蠣ぽん 3袋セット価格:3,300円(税込)商品の詳細はこちら夢牡蠣フライ揚げるだけで本格的なレストランの味が堪能できる商品名:夢牡蠣フライ 2袋セット価格:4,000円(税込)商品の詳細はこちら三陸ムール貝のカンカン焼きセットアウトドアでも楽しめる直火可能な缶がセット商品名:三陸漁師のカンカン焼き 牡蠣12個セット価格:5,000円(税込)商品の詳細はこちら三陸ムールフライ一度味わえばたちまち虜になる珍しいメニュー商品名:三陸ムールフライ価格:3,500円(税込)商品の詳細はこちら蒸しムール貝水揚げされた国産ムール貝を最高の鮮度で浜蒸しにした逸品商品名:蒸しムール貝 500g2袋セット価格:3,000円(税込)商品の詳細はこちら

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  • 夏バテの体によく効く夏の冷泉 ぬる湯宿。

    温泉のべストシーズンは冬ばかりではない。「冷泉&ぬる湯」の魅力を知れば夏の暑い時期でも温泉を十分楽しめる。ぬる湯に、いつもより長い時間浸かって夏の緑の景色を眺めるも良し。気合い一発冷泉に浸かるのも良し。風呂上がりの体に心地良い爽快な風が吹き抜ける。冷泉とぬる湯温泉は「熱い」もしくは「温かい」ものだと思われているが、 素のままの掛け流しを楽しむなら「冷泉・ぬる湯」もよい。この夏の温泉旅にお勧め。冷泉とぬる湯の違いを理解して効果的な入浴を温泉は温かいもの、というのが常識かもしれません。しかし、世の中には「冷たい温泉」があり、冷泉などと言われています。そもそも「冷泉」という定義はありません。環境省が定めた鉱泉分析法指針によると温泉は25°C以上か、または一定以上の成分を含むものとされます。つまり、25°Cにも満たないものでも、一定の成分があれば温泉と認められるということです。従って冷たい温泉が存在することになります。また、鉱泉分析法指針では、温度によって温泉は4分類されています。25°C未満の冷鉱泉、25°C以上34°C未満の低温泉、34°C以上42°C未満の温泉、42°C以上の高温泉に分けられます。特に、入浴してかなりぬるく感じる「低温泉」や38°C未満の温泉をぬる湯と呼ぶこともあります。本稿では、25°C未満の温泉を「冷泉」、25°C以上38°C未満を「ぬる湯」と称して、その「効果的な入浴方法」と「効果」を述べることにしましょう。冷泉の効果的な入浴法としては、「温冷交代浴」が挙げられます。これは温かい温泉と冷泉に交互に入浴する方法です。温かい温泉に入ると温熱作用によって体の血管は拡張し、血流が増えてきます。冷泉に入ると特に手足の血管は収縮します。ちょうどポンプのように血管が伸び縮みすることによって、手足の血流は改善します。特に運動をした後、温冷交代浴を行うことによって、血流が改善されて栄養分が筋肉に運ばれ、また疲労物質が筋肉から洗い流されることによって運動後の筋肉痛が予防されたり、効果的に疲労回復できることがたくさんの実験結果から報告されています。また、温浴だけよりも温冷交代浴は保温効果が長続きするといった作用もあるため、冷え性の改善が期待されています。この温冷交代浴は体へ刺激が強い入浴法で、40°C前後の温かい温泉に3分から5分浸かり、冷泉に1分程度浸かることを3回から4回繰り返します。最後は温かい温泉で終了すると心地よく入浴を終了することができ、手足の温かさも長く続きます。注意点としては温かい温泉から急に冷たい冷泉に浸かるため、温度差で体への負荷が強いということです。「水風呂」に普段慣れていない人は無理に冷泉に入ると血圧の急上昇をきたして脳卒中を起こしたり、心筋梗塞や不整脈を起こすことがあります。刺激が強いので健康な方向けの入浴法といえるかもしれません。冷泉に入る場合は、少しずつ冷泉を手足にかけて、冷たさに体を慣らすことが肝心です。一方、ぬる湯は体に優しい入浴法です。ぬる湯の利点は自律神経への作用であり、ぬる湯に入ると交感神経、副交感神経のうち、リラックスの神経である副交感神経の働きが強くなることです。普段、私たちは日常生活でストレスがかかることが多く、交感神経が高ぶっています。現代人の体調不良で問題になるのは緊張状態が続き、交感神経が絶えず過剰に刺激されていることです。ゆったりとリラックスしてぬる湯に入り、副交感神経を刺激して自律神経のバランスをとることが重要です。ただし、あまり冷たく不快に感じるような温度では、むしろ体が緊張して交感神経の働きが強くなってしまいます。もうひとつのぬる湯のメリットは体の温まりが長く続く保温効果です。ぬる湯で保温効果とは釈然としないかもしれません。42°Cを超えるような熱い湯のほうが体がよく温まるのでは、と考えるのが自然でしょう。しかし、人間の体はうまくできていて、急に体を強く温めると、逆に急速に体温を下げようとします。つまり、あまり熱い湯に入ると一時的に体温が急上昇しますが、その温まりは長続きしません。38°Cと42°Cの入浴でどちらが温まりが長続きするか、を検証した実験が報告されていますが、湯を出てから30分後には38°Cのほうが体温が高いままを維持していました。ぬる湯でゆったり浸かり、額に汗を感じたらいったん湯舟から出るとよいでしょう。泉質にもよりますが、38°Cで20分が目安です。冷泉やぬる湯は、温泉に行き尽くしたファンにとっても人気の通な温泉の楽しみ方です。温度が低い分、温泉の成分の違いも肌で感じやすいのです。この夏の温泉旅にお勧めです。冷泉やぬる湯になじみのなかった皆さんも試してみてはいかがでしょうか。早坂信哉(はやさかしんや)東京都市大学教授、医学博士、温泉療法専門医。(一財)日本健康開発財団温泉医科学研究所長、(一社)日本銭湯文化協会理事など。温泉や入浴を医学的に研究しておりメディア出演も多い。渋・辰野館≪長野県茅野市/奥蓼科温泉郷≫創業百余年の信玄ゆかりの隠し湯で冷泉と滋味深い山里の幸を堪能宿が白樺林の中に佇んでいることがよくわかる。高原の涼やかなひとときが心地良い。八ヶ岳山麓に広がる蓼科の自然美を楽しみながら宿へ盛夏の澄みわたった蒼空に、八ヶ岳連峰の山稜がひときわ美しく映える。茅野市側から見上げると南端の編笠山から主峰の赤岳、天狗岳から蓼科山までのワイドなパノラマがぐるりと見渡せ圧巻だ。そして車は奥蓼科へと続く通称「湯みち街道」の県道191号線へと道をとる。ひとカーブごとに上がっていく標高と、鮮やかさを増す原生林の緑。ふと、道のところどころに石仏が立っているのに気がついた。苔むした古いものから新しい石仏まで表情は様々。今回、旅の荷を解いた温泉宿「渋・辰野館」の主人・辰野裕司さんに後で聞いたところ、それは江戸時代、この温泉地を訪れた湯治客らが湯の効能に感謝して寄進した観音様なのだそうだ。近年もその習わしは受け継がれ、新たに寄進されたものも少なくないという。道の終点は天狗岳の登山口にもなっている場所で、かつての渋之湯(渋・辰野館)があったところ。昭和12年(1937)に火災で焼失したことにより、翌年の昭和13年に2㎞下の強清水の湧く現在地に宿を移転したという。ちなみに源泉は以前の地から引いている。温泉の歴史については後述することにして、宿へと向けてさらに車を進めていくと右手の木立の間に小さな池が見えてくる。池畔に立つと思わず息をのんだ。原生林が静寂の水面に映り込み、その様相はまるで水鏡のよう。もともとは農業用のため池なのだが、「御射鹿池」と名付けられた神秘的な池は今やすっかり人気の観光スポットになっている。その名が広く知られるようになったのは、日本画家・東山魁夷の名画「緑響く」のモチーフやCMのロケ地になったことなどが大きい。風のない早朝の時間帯はさらに神秘性を増し、それこそ孤高の白馬が描かれた東山魁夷の作品世界を思わせる空気感が漂うという。実は、東山魁夷は「渋・辰野館」に滞在しており、その際に御射鹿池をモチーフとした作品を着想したのではないかとされている。「この『緑響く』がお披露目されてから、私はすぐに御射鹿池だと気づきました。普段見慣れた風景ですからね」と話す主人の辰野さん。御射鹿池にほど近いこの宿にて、日本画の巨匠も温泉を楽しみながら絵を描いたのだろう。左/木筒から源泉が勢い良く流れ落ちる。真ん中上/湯の花が浮く白濁の湯。右上2つ/風呂は全て男女別にあり、大きさも造りもほぼ同じ。真ん中下/洗い場のある「展望風呂」。右下/薬湯を発見した少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)を祀る。創業大正8年の宿にて信玄の薬湯冷泉に浸かる八ヶ岳山麓・奥蓼科の自然美を満喫し、その余韻を楽しみながらいよいよ「渋・辰野館」へとチェックイン。白樺や唐松などの森林に抱かれた一軒宿は、木の温もりあふれるロッジ風の建物が印象的だ。吹き抜けのロビーには大きな窓が設えられ、外の景色が鮮やかに映り込んでいる。階段や廊下には宿の歴史を物語る写真や説明書き、山の写真などが随所に飾られている。それによると、当温泉の開湯は奈良時代末期の延暦2年(783)。諏訪神社の神官の霊夢により発見されたと伝えられている。さらに古くは日本神話に登場する少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)がこの薬湯を探し当てたとも。いずれにしても温泉成分がとても強いことから薬湯として珍重され、戦国時代には武田信玄が傷を負った重臣や軍馬の湯治のために利用したとされている。以来、“信玄の薬湯”とも呼ばれるようになった。江戸時代には高島藩(諏訪藩)が温泉場を造営。湯を樽に入れ薬として販売した時代もあったそうだ。「渋之湯へは道が険しかったため、その後は一時期寂れかけたこともありました。しかし大正8年(1919)に当館初代の辰野茂が経営を引き継ぐと、新しい旅館の建設と共に茅野駅から交通の利便性を図りました」と言う主人。何と初代は自力で道を整備し、高価な米国車を購入して送迎。さらに乗合バスも運行させ奥蓼科の開発に力を注いだのだという。道に佇む石仏の数が温泉の素晴らしさを物語るように、長きにわたり湯治客を治癒してきた。「とにかく温泉成分が非常に強いので体には効果的。でも、機械をはじめ宿のあちこちはすぐダメになってしまうんですわ(笑)」一番の特徴は何といっても源泉温度18°Cの冷泉だ。館内には木の香ゆかしい「信玄の薬湯」と、露天風呂を設えた「森の温泉」、洗い場のある「展望風呂」の3カ所を男女別に設置。前者2つには源泉のままの18°Cの冷泉と、40°C~42°Cに加温した温泉を満たした2つの浴槽があり、白濁の湯が滔々とあふれ出ている。冷泉の入り方を聞くと、足の方から体を馴染ませるようにゆっくりと浸かるのがコツだとか。部屋でひと息入れた後、まずは「信玄の薬湯」へ向かった。冷泉の湯船は源泉が滝のように落ち、何とも豪快。しかし、冷泉は最初の一歩に少々気合いが必要だ。膝まで入れられてもその先がなかなか沈められない。じわじわと2度ほどやり直した後、やがて体がするりと湯に滑り込んだ。もちろん冷たい。しかし、じっと湯に身を任せているうち、不思議な心地良さが体に満ちてくる。その後すぐに横の温湯船に入ると、体の芯がじわりと刺激される感覚を覚えた。さらに、白樺林に抱かれた「森の温泉」の冷泉露天風呂へ。一度入っているので今度はすぐに湯に浸かることができた。信玄の薬湯の方もそうだが、湯船の深さは90㎝。それは成分がとても強い温泉ゆえに長湯にならないよう、あえて深く造ってあるのだという。一回の入浴は15分くらいが適正。もっと長く入っていたかったが、部屋でゆっくり体を休めた後、夜にもう一度楽しむことにしよう。左上/しみじみ温まる冬瓜のスープ。十穀パンと共に和風出汁で仕上げた優しい一品。左下/たっぷりの野菜といただく信州野草豚鍋。右上/前菜の盛り合わせの“森のたからものづくし”。彩り豊かな旬の料理が目と舌を楽しませる。右下/イワナの燻製と信州サーモンのお造り。季節ごと常連が待ちわびる滋味深い信玄の山里料理さて、当宿のもうひとつの魅力が料理である。それは「信玄の山里料理」と銘打った創作料理。奥蓼科の山の恵みをたっぷりと、しかも丹念に料理された逸品が供される。なかでも前菜の盛り合わせの“森のたからものづくし”は、まず目で楽しみ、舌で滋味を感じる美しく楽しいひと品。それはまるで山菜や地野菜などの季節感を一枚の皿の上に演出した絵画のようだ。他にもこの日は、イワナの燻製と信州サーモンのお造りや冬瓜のスープ、信州野草豚鍋などが膳を賑わせた。それぞれの器づかいもセンスが光るが、料理は奥様と息子さん、そして主人の家族だけで作っているのだという。「仕入れた食材によって内容が変わりますが、また、食べたくなる優しい味を心がけています」と主人。その言葉通り、この料理を求めて何度も訪れる常連客は多い。味わうほどに地酒も進む口福な料理の数々。温泉の素晴らしさもさることながら、再びこの宿を訪れたくなる秘密がここにある。※こちらは男の隠れ家2019年9月号より一部抜粋しております

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  • スクスク育つ牡蠣に会いに行く

    海の畑と呼ばれる養殖に最適な三陸の海育った牡蠣は重いので、クレーンで引き揚げる。日本で見られるリアス式海岸は遥か昔、起伏の激しい山地が海面の上昇や地盤沈下によりに海面に没したことで形成された。海面よりも上に残された陸地が、複雑に入り組んだ湾や島を創り出したのだ。氷河が形成した北欧のフィヨルドとは、生まれた背景が違う。日本列島はどこも起伏に富んだ姿をしているのでリアス式海岸は各地に存在する。その中でも、宮城県北部から岩手県にかけての広範囲にわたる三陸海岸は、海岸線が複雑に入り組んでいるため、多くの観光客の目を愉しませる風光明媚な光景が広がっている。さらに漁業はもとより、養殖や水産加工が盛んなことでも有名だ。リアス式海岸はその成り立ちから、海への間口が広く湾岸の奥が浜辺になっている。湾は小高い山に囲まれているのでの影響を受けにくく波が穏やか。そして浜から少し離れただけで深くなるうえ、海を囲む山からは豊かな養分が海へと運ばれるため、海は豊富な栄養分を蓄えている。初回は、そんな三陸海岸で育った海の逸品を厳選してお届けしたい。生産だけでなく加工から管理、販売まで行う6次産業浮き玉の沈み方を見ながら水中にある牡蠣の成長を量り適度な深さへ調整しながらベストなタイミングで水揚げする。三陸自動車道を河北ICで下り、北上川に沿って海を目指すと、車窓を流れる風景は大きな建造物が見当たらず、空の広さが滲み入るように感じられた。30分ほど走ると目の前には小さな岬に抱かれた、典型的なリアス式海岸の風景が見えてくる。今回訪れた「株式会社海遊」は2011年、今では「日本一有名な漁師」と称されるまでになった、伊藤浩光さんが設立した。牡蠣やムール貝などの養殖場と加工工場がある宮城県石巻市の雄勝湾は、東日本大震災の影響もあり、周辺に商業施設がほとんど見当たらないが、それは逆に海の環境に悪影響を与えるものが少なく、代わりに周辺に広がる自然豊かな大地から、川を介して栄養分が海に注がれることを意味する。さらにミネラルを多く含む水が、雄勝湾の底から湧き出ている。そのためここで育つ牡蠣やムール貝には、よく栄養がいき渡っているのだ。左/水揚げされた牡蠣は1個ずつバラした後、高圧洗浄を行う。その後、自動選別機にかけ減菌海水に22時間以上入れて浄化し鮮度を保つ。その後出荷するために加工が行われ、消費者の元に届けられる。右/ホタテの貝殻に牡蠣の種をつけるのではなく、専用のバスケットカゴに稚菌を入れ、放し飼いのような状態で育てる方法も実践。「新しい水産ビジネスを示すために、様々な挑戦を実践してきました」と伊藤さん。そのひとつが豊かな海を舞台とし、水産業の6次産業化を試みたこと。これは生産(1次産業)、加工(2次産業)そして販売(3次産業)までを行うことだ。1次+2次+3次で6次になるという意味で、生産からお客様の元に届くまで責任を持って管理することを指している。これにより安心・安全で美味しい商品を、リーズナブルな価格で提供することができるようになった。さらに知識と経験に裏付けされた独自の牡蠣生産法も行なっている。それは「中層延縄養殖法」と呼ばれるもので、深い水深を誇る雄勝湾に適した方法である。まず水深2mほどの海面下に桁網を張れるように浮き玉を調整。そこから牡蠣の幼生が付着した原盤が水深5m以上の深さまで沈むように、長さを調整した下げ綱を吊り下げる。こうすることで菌が多く生息する上層部ではなく、中層で牡蠣を養殖できるわけだ。この養殖方法は上層部で養殖する筏と比べると菌の影響を受けにくいだけでなく、牡蠣の原盤が海表面の動揺に左右される心配が少なく、台風や高波といった災害に強い。おかげで良好な成長を促してくれ、年間を通じて安定した供給量が確保できる。その一方、常に浮き玉の状況を確認しなければならないため、手間がかかる。だが、伊藤さんが掲げた「食卓が笑顔で彩られるようなサービスや商品を提供する」という理念のため、汗を流すことを怠りはしない。このような環境下で、愛情を注いで育てられた牡蠣は旨味や塩味が濃く栄養満点。プリプリとした肉厚の食感も、一度味わえば病みつきになる。世界最高水準の管理体制も実施されているので、安心して口にできるのも嬉しい。厳選!牡蠣&ムール貝ミネラル豊富な雄勝湾の旨味が凝縮。旨味だけでなく栄養もたっぷりと含んだ三陸育ちの牡蠣と、輸入物とは比べ物にならない濃厚でジューシーな味わいが楽しめるムール貝。どちらも一度口にしたら忘れられない食の逸品。家庭で手軽に食べられる加工済みだ。牡蠣ぽんレンジで簡単に調理完了。お酒のお供にも最適商品名:牡蠣ぽん 3袋セット価格:3,300円(税込)商品の詳細はこちら夢牡蠣フライ揚げるだけで本格的なレストランの味が堪能できる商品名:夢牡蠣フライ 2袋セット価格:4,000円(税込)商品の詳細はこちら三陸ムールフライ一度食べれば誰もが虜に。他にはない味わい商品名:三陸ムールフライ価格:3,500円(税込)商品の詳細はこちら蒸しムール貝水揚げされた国産ムール貝を最高の鮮度で浜蒸しにした逸品商品名:蒸しムール貝 500g2袋セット価格:3,000円(税込)商品の詳細はこちら三陸ムールのカンカン焼きセットアウトドアでも楽しめる直火可能な缶とともに届く商品名:三陸漁師のカンカン焼き 牡蠣12個セット価格:5,000円(税込)商品の詳細はこちら※こちらは男の隠れ家2023年6月号より一部抜粋しております

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  • 大人の夏旅、北海道。【小樽・札幌・積丹編】

    もうすぐ夏本番。そして今年も亜熱帯のようなうだる暑さになるのが目に見えている。いっそのこと街を脱出して、青い空に涼やかな風の北海道に足を運ぶのはどうだろう。北の大地は、観光地も多く海の幸を筆頭に数多くのグルメも楽しめる夏旅の定番だ。さらに「北海道遺産」のスポットを巡っていけば、より思い出深い旅になるだろう。北海道ドライブ旅のテーマは「北海道遺産」。旅慣れていてもその意味合いや全貌を知る人はそれほど多くはないだろう。北海道遺産には北海道旅をより深くより楽しくするスポットが目白押しなのだ。小樽・札幌・積丹エリア年間を通じて多くの観光客が訪れる小樽・札幌・積丹(しゃこたん)の道央エリア。今なお北海道開拓の足跡を見ることができ、北海道の貿易や街づくりの拠点ともなった道央エリアの北海道遺産を紹介する。SPOT1 ニッカウヰスキー余市蒸溜所昭和11年以来ウイスキー造りの火が続くニッカウヰスキーJR「余市駅」と向かい合うように建つ余市蒸溜所正門国産ウィスキー造りに生涯を賭けた男の聖地明治2年(1869)、明治政府は開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改称した。そして2年後には開拓事業の本拠地を函館から札幌へ移転。以来、北海道の発展は札幌を中心とする道央地域を抜きには語れなくなった。という背景もあり、この地域には北海道開拓の足跡が随所に残されている。そのため近代日本の産業を牽引してきた歴史を、肌で感じられるのだ。まずはそんな遺産の代表格と言える「ニッカウヰスキー余市蒸溜所」を訪ねてみた。ここは昭和9年(1934)、ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝により、同社初の蒸溜所として建設された。余市が選ばれた理由としては、良質な水が豊富だったこと、原料となる大麦を集めやすい地であったこと、鉄道の便があることなどが挙げられる。加えて豊かな自然と夏でも涼しい気候が、本場のスコットランドに通じていたからだという。確かに、大都会の札幌から余市へとドライブすると、どんどん空が高く広がっていくのと同時に、空気が澄んでいくさまをはっきりと感じられる。眼前に広がる群青色の日本海も、ウイスキーの味に深みを与えてくれるのだろう。そしてもうひとつ、忘れてはならないのが、この地からは良質のピート(草炭)が採取できることだ。「ウイスキーは北の風土によって育まれる」という確固たる信念を抱いていた竹鶴にとって、余市は自分が理想とするウイスキー造りの条件を完璧に満たしていた地であった。そんな余市の蒸溜所にポットスチルが据えられ、火がくべられたのは昭和11年(1936)のこと。以来、当時と変わらない製法でウイスキーが造られている。余市蒸溜所に一歩足を踏み入れると、札幌軟石で造られた尖り屋根の工場群に目を奪われる。鮮やかな赤い屋根の向こうにある青空は、まるで絵画の背景のようだ。事務所や見学者の待合室となっている蒸溜所正門、現在は蒸溜液受タンク室となっている貯蔵庫、同じく混和室となっているリキュール工場など、9棟が国の登録有形文化財に認定されている。「建造物だけでなく、ウイスキー製造工程と平成10年(1998)に貯蔵庫を2棟改築して造られたウイスキー博物館の見学も楽しめます。博物館内では10年もののシングルカスクウイスキー(原酒)の試飲ができますよ」と、北海道工場総務部長の高橋智英さん。今年で創業85年目を迎えた蒸溜所にとって追い風となったのが、平成30年(2018)12月8日に後志自動車道の余市ICまでの23・3㎞区間が開通したこと。これにより札幌の中心地から蒸溜所まで、クルマで1時間もあれば行けるようになったのだ。SPOT2 開拓使時代の洋風建築明治人の開拓精神が息づくハイカラな建物明治14年(1881)に撮影された豊平館。現在は中島公園内に移築された。白い下見板にウルトラマリンブルーを使った枠まわりが美しい。正面中央部の棟飾りなどには、開拓使の建物であることを示す五稜星があしらわれる。明治人の気概と共に、異国情緒を感じる建物札幌の街中には、開拓使によって建設された洋風の建物が10棟近く遺されている。その中で当時の雰囲気を今なお残しているのが、開拓使官営のホテルとして明治13年(1880)に完成した「豊平館」だ。今は中島公園内に移築されているので、都会の中のオアシスのような存在となっている。「アメリカ風の建築様式にもかかわらず、各部屋の天井を飾るシャンデリアの吊元を飾っている円形の装飾は、日本独自の漆喰を使っています。それは幕末から明治初期に活躍した、伊豆松崎出身の入江長八の流れをくむ職人の手によるものと考えられています」(ガイド・猪股修輔さん)豊平館の外壁には、鮮やかなウルトラマリンブルーの顔料が使用されている。それとは対照的な木造のシックな建物が、開拓使の貴賓接待所として利用された「清華亭」だ。この建物は札幌初の都市型公園「偕楽園」の中に建てられていた。その最大の特徴は、全体に洋風の造りであるが、随所に和風の様式を調和させている点。和洋室併設住宅の先がけなのだ。今は閑静な住宅街にポツンと佇んでいる。建物の周囲には木立が茂っているため、往時の姿を容易に思い浮かべられる。風が吹くと木の葉がザワめき、それが開拓使の歓声のようにも聞こえてきた。そして忘れられないのが、明治11年(1878)に札幌農学校の演武場として建てられ、今では北海道のシンボル的な存在となっている「時計台」である。これは日本最古の塔時計で、バルーンフレーム構造という木を鱗状に重ねた外壁が特徴。今も2階ホールで音楽会などが行われる。札幌の中心地に位置するだけあって、カメラを手にした観光客の姿が、ほぼ終日にわたり途切れることはない。市内を巡る観光馬車と行き会えば、絶好のシャッターチャンスとなるだろう。SPOT3 札幌苗穂地区の工場・記念館群北海道における産業の発達を伝える施設明治時代の雰囲気をそのまま今に伝える博物館が入った開拓使館外観。日本近代産業の礎となった工場と記念館が建ち並ぶ「産業の街」と呼ばれている札幌市の苗穂地区。ここは豊平川の豊富な伏流水や、貨物輸送の利便性が着目され、明治初期から工業地帯として発展してきた。今も醤油製造を続け、全道一のシェアを誇る福山醸造をはじめ、大小様々な工場や倉庫がひしめいている。そんな下町情緒あふれるJR函館本線「苗穂駅」近隣には、北海道の産業史を振り返るうえで欠かせない「北海道鉄道技術館」「サッポロビール博物館」「雪印メグミルク酪農と乳の歴史館」「千歳鶴酒ミュージアム」などがあり、記念館群が形成されている。これらの工場群と記念館群がまとまり、北海道の産業史を後世に伝える北海道遺産に認定された。周辺に足を踏み入れると、まるで明治時代の活況が目の前に浮かんでくるような感覚に陥る。なぜだか昭和の香りも漂ってくる。それは古い工場が集まっている場所に漂う、独特の懐古感に包まれているからかもしれない。赤煉瓦や石壁に囲まれた路地は、工場好き人間には堪らないご褒美なのだ。そこでまず目に飛び込んでくるのが、明治の面影を色濃く残す赤煉瓦造りの「サッポロビール博物館」だ。サッポロビールの歩みを中心に、日本のビール産業史を豊富な資料や映像、ポスター、さらには実際に工場で使われていた実物資料で振り返ることができる。「昭和40年(1965)から平成15年(2003)まで札幌工場で使われていたこの煮沸釜は、直径が6.1m。500ml缶に換算すると、何と17万本に相当する仕込みができます」(サッポロビール博物館副館長・久保喜章さん)昭和52年(1977)、酪農と乳業の発展の歴史を後世に正しく伝承する目的で、雪印メグミルク札幌工場の隣に「酪農と乳の歴史館」が建てられた。館長の増田大輔さんによると「バターなどの乳製品お製造工程を、わかりやすくご説明しております。」とのこと。館内には創業当時のバター作りの機械や、製造ラインを再現した模型など、興味深い展示が目白押し。乳製品の試飲が楽しめるだけでなく、実際に稼働している工場を見学することもできる。SPOT4 北海道大学札幌農学校第2農場近代農業史を伝える最古の洋式農業建築群奥が模範家畜房のモデルバーン。外壁の板が縦に張られているのがアメリカ流。2階に乾草を格納していたため背が高い。手前は明治42年(1909)に建てられた牝牛舎。外壁の板は日本風に横張りで、サイロが附属するので背が低い。明治期の洋式建築技術の粋に触れてみる「第2農場は、札幌農学校が開校した明治9年(1876)直後から90年近く続いた研究施設です。約1万9000㎡の敷地内で、家畜を使った洋式農法を実践していました。明治10年(1877)に建てられたモデルバーンやコーンバーン、明治42年(1909)に建築された牝牛舎など、9棟の施設が現存しています」(北海道大学名誉教授・近藤誠司さん)モデルバーンは最古の洋式農業建築で、初代教頭のクラーク博士が前任のマサチューセッツ農科大学で1869年に建設した畜舎をモデルにしている。牛と馬の家畜房のほかに、牧草の乾燥収納庫を備えた木造2階建てで、地下を有する3層となっていた。モデルバーンと同じ年に建てられたコーンバーンは、トウモロコシを貯蔵するための施設。高床式の木造2階建てで、ねずみ返しが付いている。どちらもツーバイフォーの起源といわれる「バルーンフレーム方式」という工法。近藤さんによれば「日本の大工が独自に手を加え、日本の気候風土に合わせアレンジしている」という。SPOT5 札幌軟石開拓時代の建築資材の主力を担った凝灰岩札幌市資料館は、大正15年(1926)に札幌控訴院として建てられた。当初は札幌オリンピック関係の資料や札幌にゆかりのある文学関係の資料が展示されていた。現在は控訴院時代の法廷を復元している。札幌や小樽で見られる独特な石造りの建物札幌の街を歩いていると、日本では珍しい石造りの蔵や倉庫をよく目にする。使用されている石材は約4万年前、支笏湖を形成した火山活動での火砕流が固まった岩石で「札幌軟石」と呼ばれるものだ。加工がしやすく、防火性に優れた特性だったから、開拓使が廉価な不燃建材として広く使用した。老朽化が進み、建て替えも増えたというが、それでも札幌市の中心街には、いまだ現役の建物も多い。しかも店舗も少なくないので、街中散策を兼ねて探して回るのも悪くない。散策後は札幌を後にして、炭鉱の街・空知へ向かう。SPOT6 空知の炭鉱関連施設と生活文化日本の近代化を支えた国内最大の産炭地目を奪われるほどの迫力をもつ「旧住友奔別炭鉱立坑櫓」。櫓の高さは51m、地下は-735m。昭和35年(1960)に稼働、昭和46年(1971)には閉山した。観光資源として新たな活用が注目される炭鉱空知地域には最盛期であった1960年代、約110の炭鉱があり、約1750万tもの石炭を産出する国内最大の産炭地であった。日本の近代化を支え続けた炭鉱だったが、エネルギー政策の転換によって1990年代、空知の坑内堀り炭鉱は全て閉山する。だが今も広大な地域に立坑櫓や炭鉱住宅、炭鉱鉄道関連施設など、ヤマ(炭鉱)に関する多くの記憶が遺されている。まずはJR「岩見沢駅」前にある「そらち炭鉱の記憶マネジメントセンター」で、情報を仕入れるのが得策だ。「実際に炭鉱で働いていた方を中心としたガイドのお話を聞きながら、旧住友赤平炭鉱立坑櫓の建屋内部や坑内で使われていた大型機械が展示されている自走枠工場などを見学するツアーや、閉山で廃校になった小学校を利用して彫刻家の安田侃氏の作品を常時展示している美術館・アルテピアッツァ美唄など、見どころは盛りだくさんです。炭鉱関連だけでなく、様々な情報をお伝えできますので、立ち寄ってみてください」(事務局員・横山真由美さん)空知の炭鉱関連施設を巡る場合、エリアがあまりにも広大なのでクルマ移動が欠かせない。移動中も美唄市光珠内町~滝川新町まで、日本一長い29・2㎞の直線が続く国道12号線など、いかにも北海道らしい夏の風景を楽しめる。※こちらは男の隠れ家2019年8月号より一部抜粋しております

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